アラブの春とは、2010年から2012年にかけてアラブ諸国で発生した、大規模な反政府デモや騒乱の総称です。
2010年12月18日から始まった、チュニジアのジャスミン革命が発端となり、ヨルダン・エジプト・バーレーン・リビアへと波及していきました。
当時も中東地域は、独裁国家・反米国家・ユダヤ教のイスラエル・戦後復興中のイラクなど火種はいくらでもありました。詳しくは以下のブログをご覧ください。
「パレスチナ問題」、「フセイン元大統領とは何者?」、「中東問題をざっくり解説」
チュニジア「ジャスミン革命」
デモの経緯
2010年12月17日、チュニジア中部でモハメド・ブアジジという、失職中の26歳の男性が果物や野菜の街頭販売をしていたところ、販売許可がないということで、警察が商品を没収してしまいました。
モハメド・ブアジジはこれに抗議する意味を込めて、ガソリンをかぶり焼身自殺をします。
当時のチュニジアでは、青年層の失業率が25%から30%という高水準であったため、モハメド・ブアジジのように果物や野菜の街頭販売で生計を立てている失業者が多かったのです。
大学を卒業しても就職ができない若者が中心となって、職の権利・発言の自由化・大統領周辺の腐敗の罰則などを求めて、全国各地でストライキやデモを起こすようになります。
このデモが若者から全年齢層に広がっていき、政府当局との衝突が起こっていきます。デモが広がっていくにつれて、 腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなっていき、急速に発展していきました。
首都チュニスでは、デモの動きは少なかったのですが、水面下でインターネットによる反体制運動が始まっていました。デモが盛んな地域での出来事を、有志の自宅からフェイスブックに、ニュースとして投稿したのです。これが南部の抗議行動に勢いを与え、政権のメディア統制も効かなくなっていきます。慌てた政権側は、アルジャジーラなどに対して「事実を捏造している」などとするキャンペーンを始めましたが、反政府団体のサイトをブロックすると海外のハッカーから報復を受け、逆に政府のサイトがダウンする事態におちいります。
ベン=アリー大統領の対応
追い詰められていった、ベン=アリー大統領はテレビ演説をおこない、武力によるデモ弾圧は認めましたが、あくまでも「自分の責任ではない」という立場をとります。その代わりに、側近の一人の更迭を約束し、緊急の大規模な雇用措置を発表しました。しかし、デモは一向におさまる気配をみせず、さらに拡大していきます。
そしてベン=アリー大統領は、警官に市民への発砲を許可します。それでも一向におさまらないため、戒厳令をだし、軍に市民の殺害命令をだしました。しかし、この命令を軍部は拒否します。
軍の協力を得られなかったベン=アリー大統領は、さらに譲歩していきます。拘束中のデモ参加者の釈放・次期大統領選の不出馬・言論の自由の拡大・インターネット閲覧制限の解除などを約束しました。しかし、デモはそれでもおさまりません。
困り果てた、ベン=アリー大統領はもう一度、軍部にデモ鎮圧の協力を要請しますが、逆に「あなたはおしまいだ」と引導を渡されてしまいます。
そして2011年1月14日、ベン=アリー大統領は、サウジアラビアに亡命しました。
その後
その後は、政治混乱や国内での対立などを経験していきます。そして、この危機を脱するには、対話しかないという考えにいきつき「一に対話、二に対話」の考えのもと、2013年9月、チュニジア労働総同盟、チュニジアの企業経営者からなる「チュニジア商工業・手工業経営者連合(UTICA)」、アラブ初の人権擁護団体である「チュニジア人権擁護連盟(LTDH)」、弁護士の団体である「全国法律家協会」という4つの市民社会団体による国民対話が開始されました(これは国民対話カルテットと呼ばれ、2015年にノーベル平和賞を受賞しています)。
こういった紆余曲折をへて、民主体制への移行がされています。
エジプト「エジプト革命」
デモの経緯
2011年 1月25日、チュニジアのジャスミン革命に触発され、大規模な反政府デモが起こります。
当時のエジプトは、ムバラク大統領が30年近くにわたり、政権の座についていました。2000年以降に推し進めた経済の自由化にともない、年間5%から7%の経済成長率を維持していましたが、若年層の失業率が高く、貧富の差が拡大していってました。
チュニジアのジャスミン革命のきっかけとなった焼身自殺が、エジプトでも相次ぎます。これに危機感を覚えた政府は、食料品への補助金を増やすなどして、反政府革命の飛び火回避に躍起になります。その頃のエジプトのマスコミは、チュニジアとは社会構造や政治に対する意識が違うので、騒乱の波及はないという論調でした。
そんな中、野党勢力と民主化運動を支持する青年組織「4月6日運動」が中心となり、FacebookやTwitterを通じて1月25日の大規模デモの呼びかけをおこないます。これに対してムバラク政権は携帯などのアクセスを遮断する対抗措置をとりました。
この日のデモには少なくとも、1万5千人が参加したとされています。もちろん政府も黙っていませんので、治安部隊を派遣し、デモ隊を排除するために催涙弾を使用し、放水車も投入しました。
翌日の1月26日以降も、インターネットを通じてデモへの呼びかけがおこなわれ、カイロ・スエズ・イスマイリア・シナイ半島などへ波及していきます。そして各地で治安部隊と衝突し、激化していくなかで、民衆側も武装していき、銃はもちろんのことロケット弾まで使用します。
ムバラク大統領の対応
1月29日にムバラク大統領はテレビ演説をおこない、アフマド・ナズィーフ首相を含む全閣僚の解任と民主化を約束しますが、自身への退陣要求には応じませんでした。
ナズィーフ内閣は、その日のうちに総辞職します。
1月31日にはムバラク大統領が新内閣(シャフィーク首相・スレイマン副大統領)を任命し反政府デモに対して打開をはかりました。
そしてこの日は、ムバラク政権によってインターネットを遮断されているエジプト国民に、GoogleとTwitterなどが協力して、電話からメッセージを書き込めるサービスを開始しました。
そして、追い詰められていくムバラク政権は、海外メディアの排除・鉄道の休止・主要道路の封鎖をおこない、デモを鎮めようとしますが、この後もエジプト各地でデモは起こり続けます。
ついに、2月11日にスレイマン副大統領がテレビ演説をおこない「ムバラクが大統領職を辞し、全権をエジプト軍最高評議会に委譲し、ムバラク一家はリゾート地であるシャルム・エル・シェイクに移動した」と発表しました。
その後
その後、エジプト軍最高評議会によって暫定統治がおこなわれましたが、軍の統治に反発する民衆がデモを継続します。
2012年5月には大統領選挙が行われ、ムスリム同胞団のムハンマド・ムルシーがエジプト大統領に選出されましたが、革命後の混乱を抑えることはできず、国内の対立は激化していき2013年エジプトクーデターにより憲法が停止し、ムルシーは大統領権限を喪失し逮捕されます。
そして権力を掌握したアブドルファッターフ・アッ=シーシーは大統領に就任し、強権体制を復活させました。
アラブの春について、全部書くつもりでしたが、あまりにも長くなりそうなので、今回はここまでにしておきます。次回後編もお楽しみ下さいね。
読んでくれてありがとうございました。