前回に続いて、2010年から2012年にかけてアラブ諸国で発生した、大規模な反政府デモや騒乱について解説していきます。

チュニジアの「ジャスミン革命」とエジプトの「エジプト革命」は前編をご覧ください。

イエメン「2011年イエメン騒乱」

デモの経緯

イエメンはアラブ諸国のなかでも、最貧国の一つとしてあげられています。失業率は3割を超えていて、国民の約半分は、1日の生活費が2ドル以下だそうです。

イエメンは、1990年まで南北に分裂しており、1994年にも内戦が起こるなどして、南部の再分離独立の志向が未だに高いのです。
そうした背景のなか、サーレハ大統領は2010年12月に、与党国民全体会議で大統領職の任期見直しに着手し、大統領の任期を無期限で延長可能にしようとしていました。

チュニジアでベン=アリー政権が崩壊した日から4日後の2011年1月18日、イエメンの首都サナアにあるサナア大学で、学生数百人がデモを実施します。これには警官隊も出動して威嚇発砲をするなどし、大騒ぎとなりました。
さらに、1月22日にはサナア大学で再びデモが実施されます。今度は、学生だけではなくイエメン改革党などの野党勢力も合わさり、2500人以上という規模に発展しました。これに対しては、治安部隊が出動し、催涙弾などを使用して鎮静化をはかりました。

もちろんデモは首都サナアだけにおさまらず、分離独立志向が高い南部でも起こります。南部では1月20日に、数千人規模のデモが発生し、南部アデンでは抗議活動を行っていた1人が警官隊に射殺され、ラウダルではアルカーイダとみられるメンバーが兵士1人を射殺するなどし、双方に犠牲者がでてしまいました。

デモが旧南イエメン中心なのは、サーレハ大統領が旧北イエメン出身者ということもあり、旧北イエメン中心の政策に対する不満から来ています。

こうして1月27日には、首都サナアで1万6千人が参加する、最大級のデモがおこなわれました。

サーレハ大統領の対応

こうした一連の反政府デモ活動への対策として、サーレハ政権は減税や物価抑制策の発表します。また貧困世帯へ現金の支給を行ったり、公立の大学における学費を免除するなどの政策を行うなどし、不満をそらすための対策を矢継ぎ早に打ち出します。
大規模なデモを翌日に控えていた2月2日には、先手を打って議会で2013年の任期満了をもって大統領を退任し、息子アフマドへの世襲もしないことを表明しました。

もちろん、こんなことではデモはおさまりませんでした。

あくまで大統領の即時辞任を求める野党側は2月3日のデモを予定通り実施し、「怒りの日」と名づけました 。このデモはタハリール広場でおこなわれる予定でしたが、大統領支持派に国民全体会議が呼びかけて総動員し、広場を埋め尽くしたために、デモ会場がサナア大学に変更されました。
タハリール広場とサナア大学に、それぞれの支持派が数万人づつ集まるという事態となります。
またこの日には、ハッカー集団のアノニマスが大統領のウェブサイトに攻撃をしかけ、一時閲覧不能となりました。

この後も、各地でデモは頻発し、治安部隊と衝突を繰り返していきます。そんな中、サーレハ大統領は記者会見をおこない退陣を否定し、デモ隊への発砲を禁止していると述べます。しかし、その後のデモで治安部隊がデモ隊に発砲し、10人以上の死者がでてしまいます。
こうやって対立がさらに激化していくなかで、大統領支持を表明していた主要部族である「ハーシド部族連合」と「バーキル部族連合」が反政府側に加わっていきました。

そんなほぼ内戦状態が続くなか6月3日に、反政府側は大統領宮殿の敷地内のモスクを砲撃します。これによって、サーレハ大統領は負傷し、翌日サウジアラビアに治療のため搬送されました。ここから9月23日に帰国するまでのあいだ、政治空白を突かれてアルカイダに実権を握られないために、アメリカ軍が反政府側に対して攻撃をおこなっていると報じられてます。

サーレハ大統領の帰国後、イエメン国内で緊張がさらに高まり、政府側と反政府側の武装化が増していきます。ついにこんな状況を見かねた湾岸協力会議(GCC)や欧米が仲介に入り、2011年11月23日にサーレハ大統領に調停案に署名させました(サーレハは調停案への署名し、30日以内の大統領権限移譲の見返りに、訴追免除と身の安全が保障され、アメリカへ治療の名目で出国しました)。

その後

こうしてサーレハは大統領職から退きましたが、恩赦が与えられてたことに納得できない反政府側はデモを継続します。
しかし、12月7日に政府側と反政府側の双方が閣僚となる、新たな組閣が発表されます。これにより、首都サナアから政府軍、反政府軍の双方が撤退を開始するに至りました。

ちなみに、デモが続いていた2011年10月7日に、イエメン国内で反政府デモに参加し、平和的なデモを訴え続け「革命の母」とも呼ばれていた女性活動家のタワックル・カルマンがノーベル平和賞を受賞しています。

これでめでたしめでたし、とはいきません。
2015年に、イエメン内戦へと突入していきます(2020年3月現在進行中)。

リビア「2011年リビア内戦」

デモの経緯

リビアはチュニジアやエジプトとは違い、豊富にとれる石油や天然ガスからもたらされている富を、国民にある程度分配していました。しかし、1969年から政権の座に就いて以来、強権的な統治をおこない、反政府活動に対する監視・弾圧をおこなうカダフィ大佐に対しての不満は溜まっていってました。
これは国民だけではなく、権力の後ろ盾となっている軍や部族のあいだにもカダフィ大佐に対して不満があったとされています。

2010年の暮れに発生したチュニジアでの反政府デモに対して、カダフィ大佐は批判的な立場をとりました。そんな中、民衆のあいだではインターネットを通じて、反政府デモを呼びかける動きが広まっていきます。これに対して政府当局も、取り締まりを強化し、書き込み者を逮捕するなどの手段にでていきます。

2011年2月15日、拘留されていた人権活動家の弁護士の、釈放を求めるデモがベンガジで発生し、警官隊や政府支持勢力と衝突します。ベンガジはカダフィ大佐が倒した、リビア王国の中心地であり、前国王イドリース1世の出身地であったので、カダフィ大佐への支持が比較的弱い都市でした。
なんと政府はこの要求をのみ、拘留していた反政府認定メンバーを110人釈放します。

もちろんこんなことでは、デモはおさまりません。翌日以降もデモは続いていきます。それに対して治安部隊には、軍や政府直属の民兵だけではなく、外国人の傭兵まで投入していきます。

ここから2月20日までの数日間は、ベンガジで政府側と反政府側がお互い武力を使って、拠点の取り合いをします。

カダフィ大佐の対応

2011年2月20日に、カダフィ大佐の次男がテレビ演説をおこない、デモに対する警察や軍のやり方には、いき過ぎた面があり、誤りがあったことを認めました。そして政治改革をおこなう姿勢を示しましたが、デモによる死者数は誇張されているとか、内戦の勃発を警告して反政府デモに対して厳しい対応をおこなっていくと明言します。

そんな火に油を注ぐようなテレビ演説がおこなわれたその日、ベンガジでは政府のやり方に反発する一部の軍が、反旗を翻して反政府側につきました。そしてベンガジを制圧して、放送局が襲撃され、放火された映像が国営テレビで流されました。

21日には首都トリポリにまで飛び火してきます。反政府側には政府の施設である人民ホールや警察署などに火を放ちます。それに対抗してカダフィ政権は、トリポリやその周辺地域で発生している反政府デモに対して、空爆をおこないました。さらに戦闘機やヘリコプターでの機銃攻撃・手榴弾や重火器・戦車まで投入していきました。
こうして国民への無差別攻撃(虐殺)がおこなわれるようになり、油田ではストライキが発生し、操業が停止してしまいました。

こうしたカダフィ政権のやり方には、同政権内からも批判の声が上がり始めます。
リビアの国連代表部を務めていたイブラヒム・ダバシ次席大使は、リビアは大量虐殺という戦争犯罪をおこなっていると非難し、国際刑事裁判所に調査を要請して、カダフィ大佐の退陣も要求しました(2月21日亡命)。
この2月21日には、カダフィ大佐と高校時代からの友人である、アブドゥル・ラフマン・シャルガム国連大使以外の国連代表部のメンバー全員が、カダフィ大佐からの離反を宣言します。
シャルガム国連大使だけは忠誠を誓い続けていましたが、25日には国連にて非難演説をし、各国に対して涙を流しながら、リビア救済措置を要請し、国連安保理でリビア制裁案の支持を表明しました。
それと同じくして、リビアの駐米大使・アラブ連盟のリビア代表も、デモ隊支持を表明して辞任しています。

この他にも、空爆の指令を受け発進した戦闘機が、そのまま亡命したりとか、空爆を拒否した戦闘機乗組員がパラシュートで脱出したりとか、軍の将校らが兵士に反政府側に加わるよう促したりとかがあり、カダフィ政権側は内部からぐらついていきます。

2011年3月15日にはカダフィ政権への攻撃が国連安保理で承認されます。アメリカ軍の「オデッセイの夜明け作戦」によって、トマホークミサイルが100発以上発射されました。
その後も、NATOによる空爆は続きます。

2011年8月20日には、反政府軍とNATOが首都トリポリに侵攻(人魚の夜明け作戦)、銃撃を開始して1日余りで、カダフィ大佐の牙城は一部を除いて、あっさりと反政府側に陥落されてしまいました。

ここからカダフィ大佐は自称「戦術的行動」とした、撤退を余儀なくされていきます。連合軍によるカダフィ捜索にたいして密告が次々とよせられていきます。
そして10月20日にスルト市内で、NATOの空爆を避けようと排水管に身を隠していたところを、反カダフィ派に発見され、拘束されます。この際に受けた攻撃により死亡したとされ、アルジャジーラによってこの拘束・死亡の映像が流されました。

2011年10月23日、国民評議会はリビア全土の解放を宣言しました。

その後

ここで無事に、めでたしめでたし、とはなりません。
もともとリビアは、敵対しがちな多数の民族を、カダフィ政権下がうまくまとめていました。その体制が崩壊したことにより、2014年からリビア内戦に突入します(2020年3月現在進行中)。

まとめ

成功したのはチュニジアだけ?

今回の「アラブの春」についての記事ではチュニジア・エジプト・イエメン・リビアを取り上げましたが、何をもっての成功かという定義では、すごく難しいのですが、一般的な西側諸国からの視点だと成功したのはチュニジアだけとなるのではないでしょうか?

  • チュニジアのジャスミン革命
    国民対話カルテットがうまく機能して民主化成功
  • エジプトのエジプト革命
    軍による暫定統治に失敗し、強権体制が復活
  • イエメンの2011年イエメン騒乱
    革命後の政権がうまく機能せず、2015年にイエメン内乱に突入
  • リビアの2011年リビア内戦
    カダフィ討伐後、さらに混迷をきわめて2014年に再びリビア内戦に突入

改めてみてみると、どう思います?色々な部族・違う宗派・異なる階級・莫大な天然資源のよる利権などが入り混じった国を統治していくには、ある程度は強権を振るわないと難しいのではないでしょうか?

独裁政権打倒、という目的は一緒でも、打倒後に描く未来がバラバラでは、違う独裁者が現れるか、権力と利権を争って内戦するか、どちらかになってしまうってことでしょうか。

おそらく、政権なんてどっちでもいいし、貧しくてもいいから「ドンパチはやめて」普通に仕事して、普通に家族で過ごせればいいって人たちも、ごく少数かもしれませんが存在したはずです。
こういった人たちが戦火による巻き添えにあってなければいいな。と思いました。

今回の記事はこの辺で終わりとします。
あれっ、シリアがないぞ!って思った方もいるかもしれませんが、あえて今回の記事でシリアは省きました。だってシリアなんか書きだしたら、クルド人やらトルコ侵攻やらISにアサド政権ときりがないな、と思い躊躇してしまったからです。ごめんなさいです。

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