2020年現在、核兵器を保有している国家は、世界に9ヵ国あり、その合計は約1万4500基だとされています。
チェルノブイリ原発事故が発生した、1986年の世界の核兵器保有数は、約6万4000基もありましたが、米ソ冷戦終結後からは減少傾向をたどっています。
しかし、減ってきてるとは言いいましたが、現在の保有数でも人類を何度も滅亡させることが十分に可能な量であり、そのあまりにも凄まじい爆発の威力や、放射能汚染などによる二次被害をもたらすため、現在に至るまでに実戦使用されたのは、広島と長崎に投下された2回だけにとどまっています。
この日本への原爆投下は、アメリカ軍によっておこなわれたのですが、今回の記事ではアメリカの原子爆弾の研究・開発・製造をおこなった「マンハッタン計画」にいたるまでを解説していきます。
この記事の目次
マンハッタン計画がスタートするまで
このプロジェクトの名称は、最初「代用物質開発研究所」と名付けられたのですが、アメリカ陸軍の軍人であり、このプロジェクトを指揮することになったレズリー・グローヴスによって、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたことにちなんだ「マンハッタン計画」という名称に変更されました。
プロジェクトの背景
核分裂反応の発見
ウランの原子核に中性子線を当てると2つに分裂する現象、すなわち核分裂は1938年の終わり頃、ナチス政権下のドイツでオットー・ハーンらによって発見され、その衝撃的なニュースは、翌年1月に学会参加のため渡米したデンマークの理論物理学者で、量子論の育ての親と呼ばれているニールス・ボーアによって、米国の関係者に伝えられました。
そしてこの話は、全米の物理学会に広がり、各地の大学で核分裂に関する研究が一斉に開始されることになります。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れるため、渡米していたイタリアの物理学者エンリコ・フェルミ(ノーベル賞受賞者で奥さんがユダヤ人)は、コロンビア大学に招聘され核分裂の研究に取りかかりました。
そして、フェルミやハンガリーからの亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらの実験で、ウランの核分裂で新たに2個以上の中性子が発生することが確認され、核分裂の連鎖反応の可能性が明らかになると、核分裂研究はにわかに軍事的重要性を帯び始めていきます。
というのは、連鎖反応を利用すれば、核分裂で発生するエネルギーを大量に取り出すことができるからであリ、その原理を強力な爆弾、すなわち原子爆弾として利用できる可能性が明らかになってきたためです。
一方、核分裂が最初に発見されたドイツでは、行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をしたとされる理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクを筆頭に、原子核の研究(ウラン・クラブ)へ多くの優秀な科学者が投入されていきます。
1939年9月、ドイツ軍によるポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開始すると、ドイツは旧チェコスロバキアのウラン鉱山を手に入れ、ウランの禁輸措置をとります。
アインシュタインの手紙
こうした状況や、ドイツでウランの核分裂連鎖反応の研究が開始されているという情報などを総合して、連合国軍側にいる科学者たちは、「ドイツは原子爆弾の開発に着手している」と考え、亡命ユダヤ系科学者を中心に危機感を募らせていくことになります。
そして、レオ・シラードは、ドイツを追われてアメリカに移住していたアインシュタインを訪ね、署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことが、アメリカ政府へ核開発の動きをうながすことになります。
この「アインシュタイン=シラードの手紙」では、核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられており、核によって被害を受ける可能性も示唆されていましたが、アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていませんでした。
ドイツのファシズム支配への危機感
ドイツが原子爆弾を開発することへの危機感は、当初、ユダヤ系の亡命科学者を中心に抱かれていましたが、その危機感や恐怖心は、徐々にアメリカの科学者たちにも広がっていくことになります。
ノーベル物理学賞を受賞していた、アーネスト・ローレンスとアーサー・コンプトンをはじめ、カーネギー研究所長バネバー・ブッシュ、ハーバード大学総長ジェイムズ・コナントら米国科学アカデミーの主要メンバーたちが、国防に科学研究が貢献することの重要性を強く認識しはじめます。
そしてカーネギー研究所長のブッシュを通じて、ルーズベルト大統領に直接働きかけていき、1940年6月には「国防研究委員会」を組織し、さらにその1年後には「科学研究開発局」を設置し、原爆研究への政府の支援と関与を強化していくことになるのですが、ルーズベルト大統領の関心は、たいして高くありませんでした。
プルトニウムの発見とイギリスからの報告書
1941年の春、カリフォルニア大学バークレイ校で、グレン・シーボーグ(ノーベル化学賞受賞者)らが、中性子を照射したウラン中に生成する、プルトニウムの分離に成功し、さらにそのプルトニウムが、ウランと同様に核分裂を起こすことが確認されました。
このプルトニウムの発見によって、天然ウランの核分裂連鎖反応炉(つまりは原子炉)で、プルトニウムの生産ができることがわかり、それを化学分離することによって原子爆弾を作ることが可能となったのです。
さらに1941年の夏には、ドイツからイギリスに亡命した2人の科学者、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの提言をもとにした、MAUD委員会報告(英国の原爆フィージビリティ検討委員会の暗号名)と呼ばれるイギリス政府の調査報告書が、アメリカ政府に手渡されたことで、政府の対応は一変することになります。
この報告書では、初めてウラン235を使用した原子爆弾の具体概念が提示されていましたし、天然ウラン中に0.7%しか含まれないウラン235の濃縮法も示されており、原子爆弾の実現の可能性が明らかにされていました。
この1941年の2つの出来事によって、アメリカ政府は、原子爆弾の開発・製造が机上の空論ではなく、実現可能なプロジェクトであると認識し、本腰を入れていくことになります。
マンハッタン計画スタート
1941年12月には、科学研究開発局のブッシュが、関係者をワシントンに集め、原子爆弾に関する研究開発の目標明確化と体制強化を図ります。
ウランの濃縮法では、ガス拡散法、電磁分離法、および遠心分離法の3種類の方式の開発を進めることが決められ、原子爆弾に関する設計研究や、新たに有望なオプションとして加わった、連鎖反応炉(原子炉)によるプルトニウム生産に関することも具体的な計画が示され、それぞれの責任者も指名されました。
そんな時に、日本軍の真珠湾攻撃(1941年12月)が起こり、アメリカも第二次世界大戦へ参戦することになったため、軍事研究への優先度は高まることになっていきました。
原子爆弾の製造は、研究所だけでは済みませんので、様々な大型施設の建設と運転が必要となります。
「科学研究開発局」のブッシュらは、この大規模なプロジェクト(土地のほぼ接収や大規模施設の建設、管理)を陸軍の管轄として推進することを大統領に提言し、1942年6月に大統領はそれを了解します。
こうして、1942年の9月には、その実質的な責任者として、ペンタゴンとして有名な国防省ビルの建設にも手腕を振るったレスリー・グローブズ准将(後に将軍)が指名され、彼の強力な指揮下で原子爆弾の開発は本格的な国家プロジェクトとして急速な進展を始めていきます。
そして、この計画推進の事務所がニューヨークのマンハッタンに設けられたことから、この計画推進組織は「マンハッタン工兵管区」と呼ばれることとなり、計画そのものは「マンハッタン計画」と呼ばれることになりましたが、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理体制が敷かれた一方で、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入されていくこととなったのです。