ボコ・ハラムとは、ナイジェリア北東部及び、北部を拠点に活動しているスンニ派過激組織です。
大義名分としては、13世紀中頃までつづいていた「イスラム黄金時代」を模範とし、それに回帰するために「ジハード(聖戦)」をおこなっているそうです。
ボコ・ハラムという名の意味は「西洋の教育は罪」で、ナイジェリアでの活動地域の各州で「シャリーア(コーランと預言者ムハンマドの言行を法源とする法律)」の導入を目指して、武装闘争を展開しています。
「ナイジェリアのタリバン」とも呼ばれていて、過去には「アルカイダ」とも連携し、現在は「ISIL(自称イスラム国)」に忠誠を誓っています。
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組織の設立
ナイジェリアでは、統治や汚職などの問題を多く抱え、経済は長期間に渡って困窮し、格差の拡大が進行していました。
そういった背景のもとで、1990年代中頃に設立された、イスラム教の学習グループが前身組織となり、2002年にナイジェリア北部のマイドゥグリで「ボコ・ハラム」が結成されました。
2004年には、ナイジェリア北東部のヨベ州に本部を移し、ニジェールとの国境付近に設立した軍事訓練キャンプを「アフガニスタン」と名づけ、そこから警察署の襲撃などを繰り返していきます。
創設者のモハメド・ユスフは、2009年にナイジェリア治安部隊とおこなった、戦闘のときに逮捕され収監されましたが、脱獄をはかり射殺されました。
それ以降、ボコ・ハラムのリーダーは、アブバカル・シェカウという人物になったのですが、本物のアブバカル・シェカウは、2003年の時点で、すでに死亡しています。
しかし、組織内でアブバカル・シェカウの名前が1人歩きし、指導者のブランドと化しているため、その後複数の人物がアブバカル・シェカウを名乗っています。
2014年には、ボコ・ハラムとナイジェリア政府との間で、和平交渉の場がもたれたのですが、この過程では、アブバカル・シェカウの代理を名乗る者が殺到したそうです。
こうしたことから、ボコ・ハラムの正式なリーダーや交渉窓口、指揮系統の全体像などは、つかめていません。
ボコ・ハラムの標的
結成当初の標的は、警察署、警備員、軍の兵舎といった、政府の関係者や施設でした。
ボコ・ハラムが、最初におこなった大規模な攻撃は、2010年の戦闘ですが、これは、指導者モハメド・ユスフと数百人のメンバーを殺害した、国に対する純粋な報復でした。
しかし、その後は民間人も標的になり、教会や学校、バス停、モスクなどが襲撃されていますし、相手がキリスト教徒かイスラム教徒かは区別していません。
2014年以降は、女子学生の拉致・殺害や、女性看護師や住民などの殺害といった行為が目立っています。
2014年ナイジェリア生徒拉致事件
ボコ・ハラムによって、2014年4月の14日夜から翌15日にかけて、ボルノ州チボクの公立中高一貫女子学校から、276名の女子生徒が拉致された事件です。
事件の経緯
ボコ・ハラムが学校に押し入り、警備に当たっていた警察官数名と、兵士1名を殺害し、女生徒をトラックに押し込め、要塞化した拠点がある、サンビサ森林内のコンドゥガ地区へと連れ去りました。
そして拉致と同時に、チボクの住居を焼き尽くしました。
被害にあったのは、16歳から18歳の卒業を控えた生徒たちで、被害者は276名、そのうちの53名は、1ヶ月以内に、自力で脱出しています。
そして、これはナイジェリア軍も認めているのですが、軍は4時間前に、襲撃計画をつかんでいたが、戦力の増援に失敗し、援軍を送る能力は無かったそうです。
初期に脱出できた女学生
拉致・監禁から1ヶ月以内に脱出した女生徒たちには、世界の関心が高かったこともあり、喝采とともに迎えられ、帰還を祝う集いが開かれました。
自爆テロから救出された女学生
拉致後は、イスラム教への改宗を強いられ、ボコ・ハラムの思想教育がなされました。
そして、体に爆弾を装着され、ボコ・ハラムの指定した場所で起爆装置を押すように、薬物を使用した洗脳教育がされていました。
この自爆テロを強要されたのは、戦闘員との結婚(実質はレイプ)を拒絶した者たちが、多かったそうです。
この危機的状況から助かったのには、2つのパターンがあります。
①爆破予定地に数人で連行され、目の前で仲間が自爆テロを決行し、あまりのショックに気絶したり、身動きがとれなくなったため、救出されました。
②現地で起爆装置を押さずに、兵士などに歩みより、解除してもらう。
しかし②の場合は、兵士に近づいていくときに射殺されたり、起爆装置の改良によって遠隔操作にされてしまい、実行が難しくなっていきました。
ボコ・ハラム幹部との人質交換
2017年5月6日、スイスと赤十字社の仲介で82人の女学生が、治安当局に拘束されていたボコ・ハラムの幹部5人との交換で解放されました。
当初は、83人解放される予定でしたが、1人が戦闘員との結婚を理由に解放を拒否しました。
こうして解放された女性の多くを待っていたのは、さらなる虐待でした。
まずは、ナイジェリア当局の厳しい尋問や検査によって、ボコ・ハラムの過激思想を受け入れていないかが、確かめられました。
これをクリアし、ようやく家族のもとへ帰ると、家族や周辺住民から疫病神のように扱われ、暴力をともなう差別の日々が待ち受けていました。
もちろん、解放されたみんなが、こういった状況かどうかは不明ですが、程度の差こそあれ多くは、ボコ・ハラムと関係したという汚名と、過激派の子どもを持つという汚名を着せられています。
この状況の悲惨さの証拠として、解放後の差別や虐待から逃れるために、ボコ・ハラムの元へ戻っていった女性もいます。
解放されなかった女学生
拉致後に、イスラム教への改宗を強いられ、多くの者はボコ・ハラムのメンバーとの結婚を強要されています。
拉致から約1か月後にボコ・ハラムのリーダーであるアブバカル・シェカウが、ビデオで「アラーは彼女らを売るようにと私に命じた。私はアラーの命令を遂行する」と宣言し、続けて「私の信仰では奴隷制度が認められている。私はこれからも民衆を捕まえては奴隷とするだろう」いう声明を発表しました。
そして、多くの人身売買がおこなわれました。
ボコ・ハラムによる被害
2017年のユニセフによる報告では、ボコ・ハラムが大きな勢力を誇っている、北東部ボルノ州では、学校の半分以上が閉鎖されているそうです。
さらにこのボルノ州は、ボコ・ハラムの手によって、教師2300人が殺害され、1400校が破壊されるなどし、事実上の無政府状態となっているそうです。
2018年のユニセフによる報告では、2013年以降にボコ・ハラムによって拉致された子どもの数が、1000人を超えたそうです。
現在のボコ・ハラムは、活動拠点を拡大していて、ナイジェリアはもちろんですが、チャド、ニジェール、カメルーンなどでも、テロ行為をおこなっています。
2020年の3月24日には、チャド湖近郊の軍事施設で、チャド軍とボコハラムが7時間にわたって交戦し、チャド軍の兵士92人が殺害されました。
チャドのイドリス・デビ大統領は「これほど多くの自国兵を失ったのは、これが初めてだ」と述べています。
そして国連は、ボコ・ハラムの反政府活動が始まって以降、ナイジェリア北部では3万6千人が殺害され、2百万人近くが家を追われているとしています。
今回の記事は、ここでおしまいです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。