1997年に「ザイール」から改称した「コンゴ民主共和国」とは、アフリカの中部に位置する共和政の国家で、とても広大な面積(アフリカ大陸で2番目、世界では11番目の面積)を有しています。

この国は、たびたび「エボラ出血熱」が発生していることでも有名で、首都の「キンシャサ」は、1974年におこなわれたボクシングのヘビー級タイトルマッチで、王者ジョージ・フォアマンと挑戦者モハメド・アリが対戦し、アリが劇的な逆転KO勝利をおさめたことが「キンシャサの奇跡」と呼ばれるようになったことで、世界に名を広めています。

そして、世界トップクラスの鉱産資源国で、金、銀、ダイヤモンド、マンガン、プラチナ・・・など、輸出の9割を鉱産資源が占めています。
1945年の8月に広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、ザイール(現コンゴ)産のウランを原料にしていました。

しかし、この豊富な鉱産資源が、「紛争ダイヤモンド」や「紛争鉱物」として、反政府組織が武器を調達する資金源となっていることが、内戦を激化、長期化させる要因のひとつとなってしまいました。
そのため、現在の「コンゴ民主共和国」は、豊富な資源に恵まれていたにもかかわらず、度重なる戦争や紛争で経済が破綻してしまい、世界最貧国のひとつとなっています。

「コンゴ共和国」の誕生

1960年6月30日、コンゴは、ベルギー植民地からの独立をはたしました。

しかし、独立から一週間もしないうちに「ベルギーは、独立は認めたが、白人の地位を永久的に保ちたいという思惑」「豊富な鉱産資源に興味津々なアメリカとソ連」「毛沢東主義に感化され左傾化した一部の部族」「中途半端で介入に消極的な国連」「統治能力に欠ける独立政府」といった、異なる思惑や思想によって「コンゴ動乱」と呼ばれる混乱に陥りました。

結局は、冷戦下におけるアメリカとソ連による代理戦争へと移行していきます。
そして、10万人以上が殺害され、ソ連の支援をうけていた首相は逮捕され、アメリカの支援を受けていた大統領をクーデターによって軟禁した、モブツ・セセ・セコが権力を掌握したことによって、独立以来続いていた混乱は、1965年に事実上終結しました。

モブツ政権による「ザイール共和国」

モブツ・セセ・セコは、クーデター成功後に大統領に就任し、憲法を無効化させ、野党を非合法化して一党独裁制を確立し、1971年には国名を「ザイール共和国」に変更しています。

そして対外的には、東西冷戦を利用し、アフリカにおける親米反共陣営として、西側先進国からの支援金を一手に引き受け、世界銀行やIMFの資金もモブツを支える事になります。
こうした、融資や援助が貧困層の助けになることは全くなく、モブツの不正蓄財は、総額およそ50億ドルともいわれ「モブツの個人資産は、ザイール共和国の対外債務に等しい」とまで、いわれていました。
また、自家用飛行場つきの巨大な宮殿を建設し、この宮殿は「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれていました。

大統領就任当初は、西側諸国の援助に頼っていましたが、1972年には台湾と国交断絶し、中華人民共和国を訪問して毛沢東に接近し始めます。
当時は、イデオロギーの対立から「中ソ対立」が起こっていましたので、ザイールのモブツ大統領は、周辺のソ連支援組織と対立することで、中国からの支援を引き出していきました。
ちなみに、同時期には西洋的なスーツとネクタイを禁止し、中国の人民服を模した「アバコスト」と呼ばれる服装を、国民に強制しています。

私腹を肥やし続け、アメリカのTIME誌からは「アフリカの独裁者の典型」と評されたモブツでしたが、こうした失政は当然ですが、国力の低下、インフラの崩壊、国民の不満などを招いていきます。
1965年に政権の座についたモブツは、1997年までの32年間で、GDPを65%も減少させています。

「第一次コンゴ戦争」勃発の理由

ルワンダ虐殺

この引き金となったのが、1994年に隣国ルワンダ共和国で起こった「ルワンダ虐殺」です。

1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領(フツ)と、ブルンジのンタリャミラ大統領(フツ)の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けて、キガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡する事件が起こりました。
この攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線(ツチ系武装勢力)と、過激派フツの双方が、互いに非難をおこないました。

このあと、フツ系政府によって、ツチ族と穏健派フツ族を非難する、メディアを使ったプロパガンダがおこなわれ、裏では過激派フツ族への武器供給などがおこなわれます。

これにより、100日間に及ぶ虐殺がおこなわれ、50万人から100万人ともいわれる、ツチ族と穏健派フツ族が、過激派フツ族によって虐殺されたました。
そして、民族間での争いであったことから、ツチ族を繁栄させないためという理由から、ツチ族女性への強姦を奨励する命令も下され、組織的にツチ族女性に対する、性的暴力が煽られていました。

このルワンダ虐殺は、ツチ族の武装組織であるルワンダ愛国戦線が、7月4日に首都および主要都市を制圧したことによって、一応の決着を迎えましたが、虐殺に「加担あるいは傍観」した約200万人のフツ族が、殺害や家への放火といった、ツチ族による報復を恐れてルワンダ国外へ脱出し、隣国ザイールにも約150万人といわれる難民が流入しました。

ルワンダ難民への対応

ルワンダからザイールにきた難民たちは、ザイール東部にキャンプを設けます。

そして、この難民のなかには、フツ族による虐殺から逃れてきた「ツチ族と穏健派フツ族」と、ツチ族系で構成されたルワンダ愛国戦線からの報復を恐れた「過激派フツ族」とが入り混じっていました。

当時のザイール政府は、ルワンダ虐殺をひき起こし、その後、難民として流れてきた「過激派フツ族」にたいして、制御をおこなうどころか、ルワンダ侵攻のための訓練や、物的支援などをおこないました。

こうしたザイールの対応をうけ、ルワンダ新政権は「虐殺者」が逃亡したザイール東部に対してへ軍事行動を開始し、これが戦争へと発展してしまいました。

バニャムレンゲの反乱

バニャムレンゲとは、コンゴ(旧ザイール)東部地域にに居住するツチ系の小集団のことをさしています。

当時のザイールは、腐敗によって統治能力を弱めていた政府と、ルワンダ虐殺から大量の難民が流入したことなどによって、東部地域を中心に社会情勢は不安定なものになっていました。

そして、この機に乗じて「ルワンダ国防軍」は、ザイールのツチ系部族を雇って、反乱を扇動しました。
こうして実施された「バニャムレンゲの反乱」において、ルワンダが設定した目標は、ザイール東部に位置するキヴ州の奪取と、逃亡した過激派フツ族のせん滅としていました。

こうして、ルワンダからの援助を手に入れた、バニャムレンゲの部隊は、ザイール国内のツチ系以外の民兵と合流し、元毛沢東主義ゲリラでタンザニアなどで金の密輸をしていた、ローラン・カビラを指導者に「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)」を結成しました。

これは長期間に及ぶ、モブツ大統領の苛酷で独善的な政権が、ザイールのあらゆるところで敵を作っていたことによるものであり、その結果、反乱軍は広範な民衆の支援を獲得したため、いつのまにか目標は、限定的な戦闘から全国的な革命運動へと変わっていきました。

そしてこの時に、戦争オブザーバーとして振舞い、ウガンダやアンゴラなどの周辺国に協力を要請したのが、当時のルワンダ国防相であり副大統領でもあったポール・カガメ(現ルワンダ大統領)だといわれています。

こうして勢いを増していったローラン・カビラ率いるAFDLは、1997年には、ザイール全土の約4分の3を制圧し、モブツ政権は打倒され、モブツ自身はモロッコへ亡命しましたが、1997年の9月7日に亡命先のモロッコで死亡したため、同日ローラン・カビラが大統領を称することになりました。
そして、ただちに暴力行為の停止と秩序の回復を指示し、国名をザイール共和国からコンゴ民主共和国に変更しました。

新政権による混乱

ローラン・カビラ大統領による新政府も、モブツ政権同様に失望を招きます。
新政府も腐敗した政治をおこなったため、経済は深刻な荒廃状態に陥り、各地で小規模な紛争が起こりました。

そんななか新政府は、中央集権化を精力的に進めていきましたので、国民の不満はさらに高まっていき、カビラは、他国の傀儡とみなされていきます。
こうした印象を消し去るために、かつての同盟国であった、ルワンダやウガンダと手を切ることになり、1998年には、新政府と対立する反政府勢力「コンゴ民主連合(RCD)」の支援にまわられてしまいました。

外国の駐留軍を撤退させたことで、各地で起こるツチ族とフツ族の対立や、豊富な鉱産資源の利権の争いを制御できなくなっていき、この政情不安は、国内の反政府組織はもちろんですが、周辺国の反政府組織までも育てる土壌となっていきます。

そして1998年に「アフリカ大戦」とも呼ばれる「第二次コンゴ戦争」が勃発しました。

ということで、今回はここでおしまいです。これの続きは、また次回にしますね。
それでは、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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