「第二次コンゴ戦争」とは?
1998年8月に、「アフリカ大戦」とも呼ばれる「第二次コンゴ戦争」がはじまりました。
反政府組織の誕生
1996年に始まった「第一次コンゴ戦争」で「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)」を率いて、モブツ政権を倒し、大統領の座に就いたローラン・カビラは、バニャムレンゲ(AFDLの中核組織)を排除する姿勢を示します。
1998年7月14日に、カビラ大統領がAFDLのリーダーを追放したことで、対立が決定的なものとなりました。
この後に、バニャムレンゲは拠点があるコンゴ東部へと移動し、ルワンダの支援をうけ「コンゴ民主連合(RCD)」を結成し、ウガンダでは「コンゴ解放運動(MLC)」が結成されました。
こうして、カビラ政権にたいする反政府組織が周辺国の支援をうけて誕生しました。
戦争勃発と各国の参戦
「第二次コンゴ戦争」の勃発は「第一次コンゴ戦争」の終結から、たったの一年しか経っておらず、争った理由も「民族対立や資源獲得競争」という、同内容のものでした。
まずは「コンゴ民主連合」が武装蜂起したことによって勃発しました。
この反乱に対処するため、カビラ大統領は「南部アフリカ開発共同体(SADC)」に支援を要請します。
この要請に、ジンバブエ、ナミビア、スーダン、チャド、アンゴラが応えて参戦しました。
そして、アンゴラの参戦には、アンゴラの反政府組織「UNITA」が、紛争ダイヤモンドを資金源に「コンゴ民主連合(RCD)」側にたって、アンゴラ軍への攻撃を開始しました。
こうして、この戦争は、コンゴ政府軍対反政府勢力という、単純なものではなくなり、それぞれを支援する国家間の争い、それぞれの国家と反政府組織、民族間闘争、利権争い、というように、カオスのような状況へと陥っていきました。
1999年7月には国連が間に入り、ザンビア共和国の首都ルサカで「ルサカ協定」という、コンゴのカビラ政権と,周辺7カ国との間での休戦協定が調印されました。
しかし、国連部隊の自由な展開を拒否したカビラ大統領によって、この停戦協定は事実上無効化してしまいます。
新大統領誕生
2001年1月16日に、カビラ大統領は、護衛であったラシディ・カセレカに撃たれました。
カセレカは射殺され、重傷を負ったカビラは、ジンバブエに移送され医療処置を受けましたが、18日に死亡が確認されました。
そして、一週間後に遺体はコンゴに戻され、中国への留学から帰国し、コンゴ民主共和国軍の参謀総長に就任していた息子ジョゼフによって国葬されました。
それから10日後には、死亡したローラン・カビラ元大統領の息子である、ジョゼフ・カビラが大統領となりました。
ジョゼフ・カビラは大統領に就任後、ルサカ停戦合意の履行を表明しました。
2002年2月25日からは、南アフリカのサンシティで、戦争終結を目指す各派との対話がおこなわれ、政府側と反政府勢力の一部との間で、合意が成立したものの、一部の反政府勢力は、この合意を受け入れませんでした。
しかし、ジョゼフ政権は、7月にはルワンダと合意し、9月にはウガンダとの合意にいたります。
2002年10月後半には、南アフリカのプレトリアで開催された、国民対話会議において、現政府と反政府勢力「コンゴ解放運動(MLC)と、コンゴ民主連合(RCD)」は、ジョゼフ・カビラ現大統領を引き続き大統領とし、4人の副大統領を置く暫定政府を、翌年1月に樹立することで原則合意しました。
2003年には、和平協定で「第二次世界大戦」以来の死者数を出したとされる「第二次コンゴ戦争」を終結させることに成功し、国内における主な反政府勢力コンゴ民主連合(RCD)と、コンゴ解放運動(MLC)の指導者2人と、与野党の民間人2人を副大統領とする暫定政権を樹立しました。
現在も続く紛争
2006年には、民主主義にのっとった選挙が実施されましたが、結果に納得できない組織や、選挙に影響を与えられない少数部族などによっての、民族や利権を巡る紛争は現在でも続いています。
2007年には、石油探査をめぐって、コンゴ民主共和国とウガンダ共和国とのあいだで、武力衝突が発生しました。
この紛争自体は、大ごとにはなりませんでしたが、この混乱に乗じて、ウガンダの反政府武装勢力「神の抵抗軍(LRA)」の掃討作戦がおこなわれました。
2009年時点では、コンゴ国民は、毎月およそ4万5千人が亡くなっていると考えられています。
そして、現在までの実に20年以上にもわたって凄惨な状態が続くことで、死亡した人数は、90万人から540万人程度と推計されていますし、190万人以上が家を追われ、国内では450万人以上が避難をしています。
しかも、こうして死亡した者のほとんどは、食糧不足による飢餓や、インフラ崩壊による感染病の蔓延などが死因であり、直接戦闘には関与していない者たちです。
ある報告によれば、亡くなった人のほぼ半数が、5歳以下の子供だったといわれていますし、コンゴ民主共和国では、毎年40万人以上の女性が、レイプされているとの研究結果もあります。
コンゴやその周辺国には、異なる民族、異なる思想、豊富な資源があり、そこには多くの武装組織が存在しているため、火種がそこら中に存在し、非常に不安定なパワーバランスのなかで、国家統治がされていますので、いつ何時、地域紛争が大戦へと拡大していっても不思議ではありません。
以上が、コンゴ民主共和国で起こってきたことでした。
さいごに
日本で育った日本人の、私のような人間の感覚からすると、アフリカや中東の独裁者の暮らしぶりなどを、テレビでたまに目にすると「いつの時代の王様!?」と驚くような生活ぶりです。
それなのに、国民は貧困にあえいでいるというのは、とても悲しく思うのですが、だからといって、その政権を西側諸国の介入によって打倒し、違う政権を樹立したところで、その新しくできた政権が、対象を代えて同じことを、繰り返していくことになるだけです。
こうして、内戦の記事を書くたびに思い知らされるのは、どっちが勝利しようが、それほど関係ない人々が、犠牲者の大半を占めるということです。
一応、独裁者の方たちも、(誰が頼んだのかは知りませんが)命を懸けて、その地位を手に入れてるのですから、贅沢をやめろ!とは、いいませんが、何世代先にもわたって、贅沢し続けるくらいの私財を蓄えるのはやめて、国民に還元してあげてもらいたいです。
そうやって、国家統治を安定させないと、またクーデターなどの内戦が起こり、支配者が誰かなど興味もなく、日々の生活に、幸せを見いだして暮らしている人々が、犠牲にされてしまいますよ。
ということで、2回にわたって書きました「コンゴ民主共和国」についての記事は、ここでおしまいです。
読んでくれて、本当にありがとうございました。
前半記事の、モブツ政権による「ザイール共和国」誕生から、カビラ政権による「コンゴ民主共和国」誕生まで!も併せてご覧くださいね。