生い立ち
1927年イラク北部のティクリート近郊のアルアウジャ村で農家の息子として生をうける。
サダム(より正確な発音はサッダーム)とは、「直進する者」という意味。
のちの大統領アフマド・ハサン・アルバクルとは従兄弟関係である。
10歳の頃から母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで生活し、敵に屈しない性格やイランを敵視するアラブ民族主義の影響を受ける。
小学生の頃から銃を持ち歩き、素行の悪さで学校を退学させようとした校長を脅迫して退学処分を取り消させたりしている。
農家の子として生まれた子が
一国の大統領にまで登り詰めたのですから、
やはり幼少期からファンキーというか、
普通とはちょっと違う感じですね。
バース党入党
1955年に中央政府の教育庁長官になっていた叔父のハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住む。
1957年にバース党に入党する。この頃のサダム・フセインはバグダードのストリートギャングを率いていたといわれています。
ハシーム王政崩壊後に、叔父のハイラッラーが教育庁長官の職を追放されてしまいます。そのきっかけを作ったティクリート出身の男をハイラッラーの命令で殺害し、殺人容疑でサダムとハイラッラーは逮捕されます。しかし証拠不十分のために釈放されます。
教育者の叔父ハイラッラーを支持し、
党員として政治の世界にも興味を持つ若者かと思ったら、全然違いましたね。
ギャングまで率いて極悪非道なヤ〇ザと一緒ですね。
エジプトへ亡命
1959年、親英王政を倒して政権についていたアブドゥル・カリーム将軍(首相)が、アラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとり、アラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、バース党はカリーム将軍の暗殺未遂事件を起こします。
この暗殺の実行犯として参加していたサダム・フセインは、将軍の護衛から銃弾を受けて足を負傷しますが、カミソリを使って自力で弾をとり、逮捕から逃れるためにベドウィン(アラブの遊牧民)に変装し、ティグリス川を泳いでシリアまで逃亡した。
シリア滞在中に欠席裁判で死刑判決を受け、エジプトに亡命します。
この時点で殺人&殺人未遂を起こしてて、銃弾は自分で取り出し、
川を泳いで他国まで逃亡って・・・
激ワルが主人公の映画ができますね。
ちなみにエジプト亡命中に高等教育を受けて、
カイロ大学法学部で学んでいたらしいのですが、
当時のサダム・フセインがよく出入りしていたカフェオーナーの証言によると、
すぐに周囲に絡んでもめるトラブルメーカーだったそうです。
「しばらくは、おとなしくしておこう」感がまったく無いですね。
イラクへ帰国
1963年にアーリフ将軍が率いたクーデターがアブドゥル・カリーム政権を倒します(ラマダーン革命)。
この結果バース党政権が発足したので、サダム・フセインはイラクに帰国して農民局長のポストに就任しました。
さらにバース党情報委員会のメンバーとして、イラク共産党に対して逮捕・投獄・拷問などをおこない、党地域指導部(RC)のメンバーにも選出され、バース党の民兵組織「国民防衛隊」の構築にも関与しました。
しかし、この第一次バース党政権は党内の派閥権力争いによって崩壊してしまいます(1963年イラククーデター)。
1964年サダム・フセインはアーリフ大統領の暗殺を企てますが、事前に発覚してしまい、逮捕投獄されてしまいます。
そして投獄中の1965年に獄中で党地域指導部(RC)の副書記長に選出され、1966年には看守を騙して脱獄し、地下にもぐります。
1968年7月17日にアフマド・ハサン・アル=バクル将軍が率いた無血クーデター(7月17日革命)により、バース党は再び政権を取り戻しました。
このクーデターでサダム・フセインは大統領宮殿制圧に戦車で乗りつけるという重要なポジションにつきました。
亡命先から戻ってくるなり役職を与えられ、
政権の風向きが変わりそうになると、邪魔者を暗殺しようとし、
獄中にあっても権力を手に入れるとは・・・
正直すごいですね!
めっちゃ賢い悪ってたちがわるいです。
イラク共和国副大統領から大統領へ
見事にクーデターを成功させ政権についたアル=バクル大統領のもとで、サダム・フセインを副大統領に就任しました。
治安強化のために治安機関の再編成をまかされたのをいいことに、クーデターの協力者であったナーイフ首相やダーウード国防相などを国外追放・逮捕し、アル=バクル大統領の権力強化へと取り組んでいきます。
その結果1969年には革命指導評議会(RCC)副議長に任命されました。
そしてこの頃から「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」というイラク・ナショナリズムを煽りだします。
さらにサダム・フセインは治安・情報機関を再編成していくなかで、その機関の長には側近や親族を充てて、自らの支配下へ置きます。
イラクを監視社会に変貌させていき、秘密警察による国民への監視が広がっていきました。政府の機関である各省庁やイラク軍にまで「コミッサール」と呼ばれた密告者を送り込み、逐一動向を報告させていたのです。
そして政府の高位職には同郷のティクリートやその周辺の出身者を就かせました。こうなってくると当然ですが、恩恵を授かれない者たちは不満を募らせていきます。
1973年6月、シーア派のナジーム国家内務治安長官が、アル=バクル大統領とサダム・フセイン副大統領の暗殺を企てます。
しかし事前に察知され失敗に終わり、処刑されます。
さらにサダム・フセインはこれを利用して、次期大統領候補のライバル達を陰謀に加担した疑いをかけて粛清していったのです。
1979年にアル=バクル大統領が病気を理由に辞任したので、サダム・フセイン大統領が誕生しました。
完全に権力の私物化へと向かっていってるようにも思います。
普通だったら周囲にはイエスマンばかりではなく、
反対意見の者もおいた方がいいように思うのですが、
なんせこの当時のイラクは、
反対意見の者が暗殺やら粛清やらで物理的に襲ってきちゃいますから・・・
なんともいいがたいですね。
今回のサダム・フセインの記事はここまでで、残りは中編と後編にします。読んでくれてありがとうです。