イラン・イラク戦争(1980年から1988年)
1979年に隣国イランでイラン革命が起こったことによって、シーア派のイスラム主義のイスラム共和国が成立し、極端な反米活動を開始しました。
イラクはもちろんのこと、周辺アラブ諸国・欧米・ソ連にいたるまでの国々が、イラン革命の波及を恐れていました。
そういった国々の不安を察知していたフセイン大統領は、エジプトに代わってアラブの盟主になりたいという思惑もあり、1980年「アルジェ合意」をテレビカメラの前で破り捨て一方的に合意の破棄を宣言し、イランへの空爆を開始しました。
開戦した理由は、イラン革命でイランの石油利権を失ったイギリスやアメリカがけしかけたのもありますが、革命の混乱から立ち直ってない今なら、イラクにとって有利な状況であり、領土拡大できると考えたためです。
先制攻撃をおこなったこともあり、開戦当初はイラクが優勢でしたが、徐々に兵力や物資量で上回るイランが反撃し、膠着状態に陥っていきます。
1981年の6月には、ついにイランの領内から撤退せざるえなくなります。
こんな中、イラクのフセイン大統領は各国から支援され続けます。シリアを除くアラブ周辺国、石油利権を持つアメリカ・イギリス・フランスなどの西側の大国、イスラム革命の波及を恐れた中国・ソ連、さらにはイタリア・カナダ・ブラジル・南アフリカ・スイス・チェコスロバキア・チリなども武器の援助をおこないました。
とくにアメリカは1982年、当時の大統領ロナルド・レーガンが議会を通さずにイラクを「テロ支援国家」のリストからはずし、ラムズフェルド(過去に首席補佐官・国防長官などを歴任)を特使としてイラクに派遣し、フセイン大統領と90分にもおよぶ会談をさせました。
1984年にはアメリカはイラクとの国交を回復させ、停戦する1988年までにフセイン政権に対して総額297億ドル(4兆円以上)にもおよぶ巨額の援助をおこないました。
1987年には国連で即時停戦をもとめる安保理決議が採択され、1988年にイランはこの決議を受け入れ、イラクのギリギリ勝利という形で決着しました。その約一年後にはイラン革命の指導者ホメイニーが死去したため、アラブ周辺国の「イスラム革命の波及」という問題は阻止されました。結局残ったのは、各国からの援助を受け、世界第4位の軍事力を持つほどに力を付けたイラクでした。
各国ともそれぞれ色んな思惑があって戦争してるんですね。
それにしても敗戦したとはいえ、
あれだけの巨大な援助を世界中から受けていたイラク相手に
イランはかなり頑張りましたね。
クウェート侵攻
イラン・イラク戦争時に、クウェートはイラクに対して400億ドルの資金提供や、港の開放などをおこない支援していました。
戦後、イラクはクウェートへの負債返済のために、石油価格の高騰を目的にOPEC(石油輸出国機構)を通じて石油の減産を求めましたが、OPECはこれを拒否しクウェートは石油の増産をおこないました。イラクはもう一度、クウェートに石油の増産中止を求めましたが、拒否されてしまいます。
ついにイラクは、クウェートとの国境付近に軍を動員し威嚇を始めます。しかし、アラブ諸国はたんなる脅しだと思い、脅威として考えていませんでした。
最悪の場合でも局地戦でおさまるであろうと判断していたのです。
実際のところイラクもクウェート北部への限定攻撃の予定でしたが、侵攻の前々日である7月31日に突如計画変更し、全面侵攻に切り替えました。
このためにイラク軍も準備が不十分で、とくに兵站物資(補給)の準備が足りていませんでした。
1990年8月2日にイラクの共和国防衛隊(RG)がクウェート国境を越えて侵攻を開始しました。実はこの時、充分な武器弾薬や燃料を所持していたのは、共和国防衛隊(RG)の戦車2個中隊のみであり、他の部隊は必要最低限の物資・燃料しか持っていませんでした。
しかしクウェート軍の戦力は共和国防衛隊(RG)の50分の1ほどであり、奇襲攻撃のせいで混乱状態にあったので、わずか数時間で制圧されてしまい、軍の一部はサウジアラビア・カタールへの撤退を余儀なくされてしまいます。
それでもクウェート軍もなんとか立て直しをはかり、空軍基地を死守するなどして各所で奮闘したが、戦力・経験ともに差は圧倒的であり、抵抗むなしく20時間でクウェート軍は粉砕されてしまいました。
フセイン政権はクウェートを属国にしようと考え、クウェート暫定革命政府を成立させ、1990年8月4日に「クウェート共和国」の樹立を宣言させました。しかし、この暫定革命政府の閣僚の大半はイラク人であり、国際社会はもちろん承認しませんでした。
そこでフセイン政権は方向転換し、8月8日イラク革命評議会は、クウェートの併合を決定し、イラク19番目の県「クウェート県」としてしまいます。
このクウェート侵攻はどうとらえればいいんでしょうか?
もちろんイラクは自国の思惑があってイランと戦争したんですが、
一応アラブ諸国を代表して戦ったわけですし、
すこしはイラクの言い分もわかるような気がしなくもないです。
単純に日本に置き換えて考えてみると、
アメリカが代表で戦ってくれて(アメリカは勝手におっぱじめますが)
その後、自分たちに都合の良い平和がやってきたのに、
そこでアメリカの要求を断ったら難癖つけられてやられてしまうような気がします。(日本は断りませんけどね)
クウェートも大金を貸し付けてるからって、
どっかおごりがあったのではないでしょうか?
日本なんてアメリカ国債めっちゃ持ってるのにいいなりですよ。
戦争はダメとかは一般社会の話であって、
こういった世界では通用しないようですね。
湾岸戦争
イラクのクウェート侵攻があったので、アメリカは同盟国のサウジアラビアの防衛を名目に空母と戦闘部隊を派遣します。
国連の安保理は対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択しますが、これにたいしてフセイン大統領は、イスラエルがパレスチナ占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するといった「パレスチナ・リンケージ論(パレスチナ問題解決のためにイラクはクウェートを占領したかのような議論)」で対抗しました。
また、日本・ドイツ・アメリカ・イギリスなどの非イスラム国家で、アメリカと関係のある国の民間人をイラク国内の施設に監禁し、「人間の盾」とした。
このフセイン政権の姿勢は、パレスチナ人などのごく一部のアラブ人には支持してもらえましたが、反米国家も含めたほとんどのアラブ諸国に「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求されてしまいます。
ついには国連の安保理決議で、1991年1月15日までにクウェートから撤退しない場合は「必要なあらゆる処置をとる」という武力行使容認の決議を採択されてしまいます。
1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が対イラクの軍事作戦「砂漠の嵐」を決行し、イラク各地の防空施設や基地に空爆を開始し、湾岸戦争が開戦しました。
フセイン政権は、多国籍軍との戦力差は理解していたので、いかに軍事力の損失を少なくできるか、各施設の被害を少なくできるかを最重要に考えていました。そのため空軍の戦闘機は、ついこの間まで戦争してたイランに避難させています。
そして弾道ミサイルを使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃し始めます。サウジアラビアはアメリカ軍の拠点があったため、イスラエルはこの戦争に巻き込むことにより、争点をパレスチナ問題にすり替え、多国籍軍に参加しているアラブ諸国をイラク側に寝返らせるためでした。
しかし、アメリカがイスラエルに対して報復をしないよう強く説得をおこなったため、フセイン政権の思惑は失敗と終わります。
2月に入るとフセイン政権はソ連に仲介に入ってもらい、クウェートからの撤退を視野に入れた停戦の準備を進めていきます。その一方でイラク軍はクウェートの油田に放火し、焦土作戦を始めてしまいます。
これに激怒したアメリカのブッシュ大統領(パパブッシュ)は、1991年2月24日にアメリカ軍による地上作戦を開始しました。
するとフセイン大統領はあわててクウェートからを撤退も命じ、2月27日にはクウェート放棄宣言をしました。
1991年4月3日に国連安保理は、イラクに対して大量破壊兵器の放棄とイラクの領内に強制連行されたクウェート人の解放を義務とした決議案を採択します。4月6日にはイラクは停戦を正式に受け入れ、これによって湾岸戦争は終結しました。
おごれるもの久しからずといったとこでしょうか。
クウェート侵攻前までは、
短い期間でしたがアメリカと蜜月関係にあったわけですから、
アメリカが介入してこないとよんでたのでしょうか。
それは無理ですよね。
アメリカはイラクの味方がしたいんじゃなくて、
石油利権と世界のリーダーたる地位が欲しいんですもん。
しかし、攻撃されたイスラエルに対して反撃をガマンさせたのはさすがですね。
イスラエルって周辺国を全部敵にまわしてでも、
やるときはやる国ですもんね。
今回のサダム・フセインの記事はここまでで、残りは後編にします。読んでくれてありがとうです。