イラク戦争

湾岸戦争での停戦決議のなかに大量破壊兵器の廃棄がありましたが、その後も大量破壊兵器をイラクが所持しないように、国連は「UNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)」というおもにアメリカ人とイギリス人で構成された調査委員会を設置し、定期的にイラクの兵器の保有状況と兵器製造施設を立ち入り調査していました。
1998年までは大きな問題がおこることもなくおこなわれていましたが、UNSCOMが調査方式を事前通達方式から抜き打ち方式に変更します。
これによって、イラクは調査に非協力的となり、調査委員会の受け入れを拒否するようになってしまいました。

ついにアメリカのオルブライト国務長官は、イラクがこのまま調査委員会を受け入れないのであれば、アメリカ単独でイラクへの攻撃を行うと発表します。
この声明に対して支持を表明したのはイギリスと日本だけでした。常任理事国のロシア・フランス・中国は反対の立場を示しました。
このおどしが効いたのか、イラク側も譲歩し1998年11月17日にUNSCOMの調査を受け入れたのですが、12月15日にUNSCOMから安保理に「イラクの完全な協力は得られなかった」という報告がなされました。

この報告書の内容を受けて1998年12月16日に、アメリカとイギリスはイラクの軍事施設に対して、トマホークと空中発射巡航ミサイルで空爆を開始します(砂漠の狐作戦)。
この作戦は国連安保理の承認は得てなかったので、アナン国連事務総長をはじめ、安保理15か国(非常任10か国を含む)のうち12か国から遺憾の意が表明されてしまいました。
ちなみに日本の小渕首相は「わが国として、アメリカとイギリスの行動を支持する」という声明を発表しています。

その後、イラクは国連からの調査団の受け入れはおこなわず、拒否し続けます。

2001年にはアメリカで、ジョージ・W・ブッシュ大統領(ブッシュJr.)が誕生しました。
ここからアメリカブッシュ政権はイギリスとがっちりタッグを組み、次々とイラクに対して経済制裁・輸出規制などの締め付けをおこなっていきます。
そんなさなかアメリカでは、9.11(同時多発テロ)がおこります。

2002年1月にブッシュ大統領は、イラク・イラン・北朝鮮を大量破壊兵器を保有する「ならず者国家」とし、「悪の枢軸」とする発言をおこないました。
当然、名指しされた国は猛反発し、対立を深めていくこととなります。

2002年4月にはOPCW(化学兵器禁止機関)にイラクを加盟させようとしたブスターニ事務局長の解任をアメリカの要求で可決し、イラクをさらに追い込んでいきます。
2002年11月にイラクは、4年ぶりに調査団の査察を受け入れます。しかし、アメリカはちっとも納得せず、イラクを非難し続けます。
2003年2月に、アメリカは国連にイラクが大量破壊兵器を隠し持っているという証拠を提出しましたが、これはイラクの研究をおこなうアメリカの大学院生が1991年に書いた論文だったのです。
2003年2月21日UNMOVIC(UMSCOMの後継機関)のブリクス委員長が、アルサムード2( 弾道ミサイル )を3月1日までに廃棄するようイラクに指示を出し、2月27日にイラクはアルサムード2の廃棄に取りかかりました。

しかし、アメリカ・イギリスはやはり納得せず、査察は不十分であるとし、武力行使も辞さないとする新決議案を安保理に提案しました。 この当時、日本は議決権がなかったのですがアメリカの要請により、ODA(政府開発援助)をみやげに反対各国に対し、賛成にまわるよう根回しに奔走しました。
そんな根回しもむなしく、最終的にこの案は反対多数で否決される見込みとなりました(賛成4、反対11)。 するとアメリカは、この議案の採決結果が残るのを嫌がり、採決を見送ります。

3月17日、ブッシュ大統領はテレビ演説で、イラクに対して最後通告をおこないました。内容は「48時間以内にサダム・フセイン大統領と側近、家族の国外退去をもとめる」といったものでしたが、イラクはこれを無視します。
日本では開戦直前の衆議院外務委員会で、川口順子外務大臣が武力行使に反対するフランスを甘えていると言って非難しました。

2003年3月19日、アメリカ軍とイギリス軍はバグダードなどの主要都市に爆撃を開始(イラクの自由作戦)、イラク戦争へと突入しました。
日本の小泉首相はソッコーで「理解し、支持いたします」との声明を発表しました。

迅速に制空権を確保したので、翌20日からは陸上部隊が進行し、順調に各地を制圧していきました。
2003年4月9日にはバグダードを制圧したが、サダム・フセイン大統領はすでに逃亡していた。この日に、バグダードのフィルドゥース広場にて、サダム・フセインの像が引き倒されています。
2003年5月1日、ブッシュ大統領はサンディエゴ沖で空母にて演説し、戦闘終結宣言を出しました。

すいません、ずいぶんと長々と書いてしまいました。
フセインて何者なの?の立ち位置からすれば、こんなに書く必要もなかったと思うのですが、
イラク戦争となると開戦にいたる経緯をしっかりしとかないと、
ただ単に米英軍が、
悪の枢軸国イラクをボッコボコにして終わりになっちゃいますのでお許しください。
しかし、本当にアメリカ&イギリスは最強にワガママですね。
逆らう国はやっちまえ!って考え方だし、
対抗してやろうと軍備を増強してたら怒ってくるし、
やりたい放題です。
だいたい、開戦理由の超重要事項の一つであった、
大量破壊兵器は、結局なかったよ!

少し太平洋戦争とも重なりますよね。
あの時も開戦の少し前までは、
アメリカ・イギリスとも仲良くやってたのですが、
日英同盟破棄もあったし、
植民地を放棄しろだの、
無茶な要求がどんどん突き付けられてきて、
もういい!やったろうじゃん!!
(超ザックリ書いてます)
って感じで開戦に向かいましたから。
アメリカやイギリスって戦争ありきなんでしょうね。
それを回避するには手段はたった一つ、
白旗あげてすべての要求をのむことでしょう。
だって、アメリカやイギリスなどの五大常任理事国は
核兵器や大量破壊兵器を大量に保有していて
他の国には保有を認めず、
逆らったら木っ端みじんて・・・
どっちがならず者やねん!!

サダム・フセインついに逮捕

2003年の4月9日にアメリカ軍はバグダードを陥落させたのですが、サダム・フセインは4月9日までバグダードに潜伏していたのです。

サダム・フセイン逮捕のきっかけは、2003年7月に拘束したサダム・フセインの警護官の供述でした。そしてこの供述をもとにして、2003年12月13日アメリカ軍は、サダム・フセインを拘束するために「赤い夜明け作戦」を決行します。

イラク中部ダウルにある、隠れ家の庭の地下に掘られた穴に潜んでいるところを、作戦決行中のアメリカ陸軍第4歩兵師団と特殊部隊に見つかりました。拳銃を所持していたらしいのですが、抵抗や自決はおこなわなかったとのことです。
アメリカ軍兵士によって穴から引きずりだされ、「お前は誰だ」と問われます。それに対して「サダム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えたそうです。
この時にアメリカ軍の通訳として帯同していた、シーア派イラク人を見て「裏切者」と罵り、ツバを吐きかけたので、そのイラク人に殴打されてしまいます。

逮捕後、弁護士を通じて語ったことよると、「穴倉に潜んでいたのではなく、朝の礼拝中に襲われた。米兵に足をたたかれて、麻酔で眠らされた。拳銃は持っていなかった。持っていれば戦って、自分は殉教者となったはずだ。」とのことです。

ちなみに逮捕時に潜伏していた隠れ家は、アブドゥル・カリーム首相暗殺未遂事件(1958年、詳しくはコチラの記事をどうぞ)を起こした時に使用した隠れ家だったことが、FBIの尋問によりあきらかとなりました。

ついに逮捕されましたね。
しかし、真実はどうなんでしょうか?
弱虫でひきょう者のイメージをつけたかったアメリカの発表か?
誇り高きイメージをもってもらいたいサダム・フセインの悪あがきか?
今となっては知るよしもありません。

死刑執行まで

逮捕後は、アメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」にて拘留されました。窓のない独房でしたが、エアコンも完備されており、広さも充分あったようです。
コーランの朗読や読書、詩の創作などをおこない、米国製のマフィンやクッキーなども楽しんでいたとされています。しかし、当然ですがヒゲを手入れするためのハサミやカミソリは支給されなかったそうです。

レバノン系アメリカ人でFBI・対テロ部門主任ジョージ・ピロの回想では、

  • 拘留中も1日5回の礼拝を欠かさない、敬虔なムスリムであった。
  • 女性には色目を使い、女性看護師が採決などに訪れたときは「君はかわいいね」と伝えるように頼まれた
  • 高級ワインや高級スコッチとキューバ製の葉巻を好んだ
  • ブッシュ親子には嫌悪感をもっているが、レーガンやクリントンに対しては尊敬の念すら示した
  • 1980年代にクルド人に対して化学兵器を使用し、大量虐殺をおこなったことに関しては「必要だった」と正当性を主張した。
  • 1990年のクウェート侵攻については、侵攻前の両国外相会議の場で、クウェートの代表から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたので「罰をくだしたかった」と述べた。
  • 大量破壊兵器については、開発済みで隠し持ってるように振舞ったのは、「湾岸戦争の敗北によって通常戦力が大幅にダウンしたため、大量破壊兵器がなきことが明らかになると、イランやシリアに攻め込まれる危険があった」と答えた。
  • 国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イランに弱みを見せるほうが危険と判断した。
  • アルカイダとの関係は否定し、ビンラディンを狂信者と呼び、「交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった」と述べた。

さらに、人物像としては「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想しています。
同様の感想をサダム・フセインが収監されていた、アメリカ軍収容所のジェニス・カーピンスキー元准将も述べています。

また、サダム・フセインの世話を担当した、ロバート・エリス陸軍曹長によると、

  • 看守のアメリカ兵たちはサダム・フセインのことを勝者を意味する「Victor(ヴィクター)」と呼んでいた。
  • 自分の子にはよく本を読んで寝かしつけたこと、娘をよくあやしていたことを語っていた。
  • 不平を言わない模範囚であり、アメリカ兵に敵対的な態度は見せなかった。
  • 一度、ハンストを起こした。これは食事をドアの下から差し入れたためである。それからはドアを開けて食事を届けるようにしたので、すぐにハンストはなくなった。
  • 食事のパンをとっておいて、庭で小鳥に食べさせてるのを目撃した。
  • 「米軍はなぜイラクに侵攻したのか?」と質問された。「国連の査察官は何も見つけられなかっただろ」と述べた。
  • ある日、アメリカ本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、帰国しなければならなくなった時、サダム・フセインはエリスを抱きしめ「お前はもう、俺の兄弟だ」と言い、別れを惜しんだ。

と、いうふうに米誌の取材で答えています。

そして2004年7月1日に大量虐殺などの罪で訴追され、裁判が開始しました。検察側は今までのサダム・フセインがおこなった悪行をならべたて、終始サダム・フセインは正当性を訴えるといったことの繰り返しでした。
2006年11月5日にサダム・フセインは、イラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決が言い渡されました。
2006年12月26日に開かれた控訴審でも第1審の判決が支持され、上訴を棄却し死刑が確定しました。

2006年12月30日、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードにある刑務所に移され、絞首刑による死刑が執行されました。

フセイン政権がおこなった虐殺は、
もちろんダメなことだし、
そこは最高責任者として言い逃れできないでしょうし、
極刑に値すると思います。
ただ素朴に思うのは、
アメリカやイギリスは、
いろいろとイラクの振舞いに対して難癖をつけてたけど、
結局のところ、
石油の利権が欲しかったんでしょ!ってことです。
イラク国内は戦後、大混乱状態ですよ。
しかもバース党の残党が
シリアを拠点にテロ活動してたり、
アルカイダの人たちとあわさってISIL(旧呼称イスラム国)になっちゃたり、
アングラにいってしまったから、
よけいに動きを把握しにくくなってしまってない?
なんかちょっと日本の暴対法みたいです。
ヤ〇ザを法でガンガン取り締まっていったら、
半グレとかヤメゴクとかが増えて、
活動がどんどん地下に潜っていって、
正確な構成員の数とかも把握できなくなっていったもんね。
一緒にしたらどっちからも怒られそうですけどね。
とにもかくにも
サダム・フセインさんについて書きましたが、
ひとついえるのは、
人としての誇りや尊厳はおいといて、
アメリカに楯突いたらやられるぞ!ってことですね。

サダム・フセインシリーズ おしまい。

サダム・フセイン前編

サダム・フセイン中編

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