「アーリア人の国」を意味する国名をもち、アジア南西部に位置するイスラム共和国のイランは、西洋では古くから「ペルシア」として知られていました。

イラン最後の王朝が成立

第一次世界大戦を迎える頃には、イギリスとロシアに分割占領された状態でしたが、大戦中に起こった「ロシア革命」で、レーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ったことによって、その状況は大きく変わり始めます。

新たに誕生したレーニン率いる「ソビエト」は、それまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄という、これまでの帝国主義がはびこる世界では考えられなかった、画期的な「反植民地主義政策」を打ち出したのです。

こうしたソビエトの動きにたいしてイギリスは、単独でのイラン支配を目指し「イギリス・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図るのですが、この協定に激怒したイランの人々は、当時のイラン政府であるガージャール朝政府の意図を超えて、急進的に革命化していくことになります。

そこからはイラン各地で、反イギリスや反政府という立場で、暴動や革命運動が頻発することになり、1921年には、イラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターが発生し、ついにイラン支配をあきらめたイギリスと、反植民地主義を掲げたソビエトがイランから撤退をします。

その後1926年に、イラン・コサック軍を率いたレザー・ハーン大佐が、皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、イラン最後の王朝といわれている「パフラヴィー朝」が成立することになりました。

パフラヴィー朝とガヴァーム首相の方針転換

パフラヴィー朝成立後は、不平等条約は破棄し、法制度の西欧化が進められ、近代的教育制度の導入もされましたが、1931年に社会主義者や共産主義者を弾圧するための法律である「反共立法」を成立させてからは、急速に独裁化を強めていくことになります。

そして1935年には国号を「ペルシア」から「イラン」に変更し、同じような政治体制をとる「ナチス・ドイツ」に接近していき、1939年に勃発した第二次世界大戦に巻き込まれていくことになりました。

第二次世界大戦の開戦当初は、中立の立場を維持しようと努めていましたが、1941年の8月にイギリスとソビエトがイラン侵攻作戦を開始したことによって、イランはあっさり敗北し、再びイギリスとソビエトに領土を分割占領されてしまいます。

その後は、皇帝レザー・パフラヴィーが息子に帝位を譲位して退位し、イラン国内には親ソビエト派共産党である「トゥーデ党」が結成されていきますが、1943年に開かれた連合国首脳による「テヘラン会議」で、戦後イランを含む、第二次大戦の戦後処理問題が話し合われました。

その結果、イラン北部のソビエト軍占領地では自治運動が高まったり、西部地区ではクルド人による独立国が宣言されたりしましたが、アフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年に、イランに再統合されることになります。

アフマド・ガヴァーム首相は、当初、イラン国内の右派を逮捕したりして親ソビエト路線をとり、50年間に渡る石油利権と引き換えに、イラン国内のソビエト軍に撤退してもらう約束を交わします。
しかし、こうした左傾化していくイランの状況にたいして、不満と危機感を募らせた英米は、ガヴァーム首相に圧力を強めていき親英米路線へと転換させ、ソビエトとの石油利権の約束も撤回させてしまいました。

こうしてイランの石油利権にたいするソビエトの介入を退けさせた英米でしたが、1951年に国民の圧倒的な支持を得て誕生したモハンマド・モサッデク首相によって、状況を一変させられてしまうのです。

アングロ・イラニアン石油会社の国有化

モサッデク首相は、石油国有化運動を進めてイギリス系「アングロ・イラニアン石油会社(1935年の国号変更に伴いアングロ・ペルシア石油から改名)」の石油国有化を断行しました。

この「アングロ・イラニアン石油会社」というのは、現在のBP社(イギリスのエネルギー関連事業を展開する多国籍企業)の一部であり、1909年にイギリスが設立し、イランの石油利権を独占していた会社です。
そして1933年には、当時のペルシア(現イラン)の代表と、60年間に及ぶ石油利権協定の契約を結んでいましたが、その内容は、イギリス85%・イラン15%の割合で利益を分割するという不平等なものであり、さらに同社は、イラン政府に財務報告をおこないませんでした。

アングロ・イラニアン石油会社としては、同社を国有化するというイランの行動に当然納得しませんでした。
そしてこの問題は、2国間の紛争として「国際司法裁判所(ICJ)」に提訴され,イランはICJに管轄権がないという主張をしていきます。
この結果1952年7月22日の判決でICJは,イランの主張を認めました。

こうしてイランは、不平等な契約によって、イギリスに取られていた自国の資源を取り戻したわけですが、当然ながらイギリスは、この結果に納得しませんでした。

アジャックス作戦と米国の傀儡政権

イランの石油利権から追い出されたイギリスは、イランの政権転覆のための策略を検討しはじめ、両国は戦争に近づく状況となっていきます。

こうした問題にたいして、当初は、静観をしてイギリスとイランの仲介などを試みていたアメリカでしたが、1953年にアイゼンハワー大統領が誕生したことによって、状況に変化が訪れます。

アイゼンハワー大統領は、CIAにイランの政権転覆を命じ、イギリスのMI6と共同で「アジャックス作戦」を実効させました。
アジャックス作戦というのは、現在はCIAも認めている秘密作戦で、テヘランのアメリカ大使館の指揮のもと、反政府勢力を支援し、民主化革命の前の独裁者であったシャー(王)を、帰国させてしまうというものです。

そしてこの秘密作戦のおかげで、1953年のイランクーデターが成功し、政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定は撤廃され、シャーはアメリカの支援下で専制君主として復帰をはたしました。

1954年8月には、アングロ・イラニアン石油会社は、国際共同事業体の配下に置かれ、その株式のうち40%を5つのアメリカ系メジャーが8%ずつ等分し、残りの株式は、イギリスの英国石油が40%、オランダのロイヤル・ダッチ・シェルが14%、フランス石油会社が6%を保有しました。

こうしてイランに、アメリカの傀儡政権を樹立させて、石油利権を無事に取り戻してからは、イランにアメリカの兵器を大量に購入してもらうことになります。
そして、イラン皇帝とホワイトハウスは、緊密な関係を築いていきますが、石油利権の流出や、急速な西洋化政策は、イラン人の一部、特に強硬なイスラム保守層の不満を募らせていくことになりました。

結果的には、急速に貧富の差が拡大し、一般市民にも国家への不満が高まっていき、この経験から、西側諸国による中東でのイスラム文化の破壊や、自国の都合で他国を蹂躙する行動などに対して敵対心が芽生えていき、1978年の「イラン革命」や、数々の「テロ行為」へと繋がっていくことになります。

イラン革命

イラン革命では、イランにおけるシーア派の十二イマーム派(イランの国教でもあるシーア派の一派)の、精神的指導者だったルーホッラー・ホメイニーが、亡命先のフランスから糸をひいて反体制運動を煽り、イラン皇帝とその家族をエジプトに亡命させることに成功しました。

これを受けて、ホメイニーは1979年2月1日に、亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、ただちにイスラム革命評議会を組織し、その評議会で、パーレヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し、唯一の公式政府となって「イスラム共和国」への移行をすることへの是非を問う国民投票を実施し、98%の賛意を得ます。

1979年4月1日に、ホメイニーは「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言し、「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導する立場となり、文字通り同国の最高指導者となりました。
こうした一連の動きを総じて「イラン革命」と呼んでいます。

そして、イラン革命の成功によって、イランでの石油利権を失った西側諸国と、イランにシーア派の国家が樹立したことに脅威を感じたスンナ派中心のサダム・フセイン率いるイラクは「イラン・イラク戦争」をひき起こし、この戦争でイラクのフセイン政権は、西側諸国やアラブ諸国を含む世界の大半の国家から支援をうけることになりました。

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