大韓民国初代大統領「李承晩」

大統領就任前

1875年に、李氏朝鮮(現在の朝鮮半島にあった国)の王族の分家の家庭に生まれた。
ミッション・スクールで学んでいたが、1896年に独立協会(1898年まで李氏朝鮮にあった、開化派の運動団体)に参加し、1904年まで投獄されました。
釈放された理由は、日本が大韓帝国(李氏朝鮮のあとにできた国)にたいして、影響力を強めてきていたのをやめさせるために、アメリカに援助を求めようとし、英語が話せた李承晩をアメリカに派遣したためです。

アメリカに渡った李承晩は、大韓帝国政府の思惑通りには動かず、当時の大統領セオドア・ルーズベルトとの面会でも、大韓帝国と皇帝高宗を否定しました。
その後は、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学をへて、プリンストン大学で博士号を取得しています。
そしてこの頃に、後の大統領ウッドロウ・ウィルソンに気に入られました。

そして帰国しましたが「寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件」への関与が疑われてた為、アメリカに戻り、ロビー活動に専念しました。

李承晩は「日本はいずれアメリカと敵対する、その時には朝鮮を戦友とするべきだ」「日本の侵略を容認して朝鮮を見殺しにしたアメリカも同罪である」と大韓帝国の独立支援を要請しますが、これは断られます。
1944年にはアメリカの高官に対し米国の官僚に対し「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」と語ったそうです。

1945年8月に日本が降伏し戦争が終わると、朝鮮半島は38度線を境に、ソ連が支配する北側と、アメリカが支配する南側に、分かれてしまいました。
10月に李承晩は、朝鮮に帰国しました。当時の李承晩は、アメリカ国内で「大統領に就任すべき正当性を備えている」と評価され、マッカーサー連合国軍最高司令官からの支持も得ていました(マッカーサーに李承晩をすすめたのは蒋介石だといわれています)。

李承晩は、日韓併合時代には、ほとんど朝鮮にいなかったので、国内の支持基盤はありませんでした。
そんな李承晩を支えたのが、日本統治時代の実業家たちが中心となって結成した組織「韓国民主党(韓民党)」でした。これは反日民族派が政権をとった時に、親日派の粛清がはじまるのを恐れたためです。

このように、政権争いが、親日や反日、右派や左派で分かれ、混沌としていくなかで、1948年の5月10日に、南朝鮮で「初代総選挙」が実施されることが決定しました。
そしてこの総選挙によって、李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制しました。そこで制定された、第一共和国憲法は、議会が大統領を選出すると定めていましたので、李承晩は、議会で多数の支持を得て、初代大統領に就任しました。
1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援のもと、朝鮮半島南部のみを実効支配する「大韓民国政府樹立」を宣言しました。

大統領就任後

李承晩大統領の大量虐殺

李承晩が大統領に就任する前の、1947年の3月1日に済州島で、南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモをおこなっていた、島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が発生しました。
これに抗議する意味で、島全体でストライキがおこなわれます。それに対して政府側は、右翼青年団体を送り込み「白色テロ(反革命にたいする暴力行為)」で応戦しました。

そして、1948年の4月3日から南朝鮮の済州島で、南朝鮮労働党(北朝鮮との統一を目指す共産党)は、島民を中心とした武装蜂起(済州島四・三事件)をおこしました。
蜂起当初、アメリカ軍は、警察と右翼グループを動員して鎮圧にあたりましたが、8月の大韓民国成立後は、韓国軍が鎮圧に乗りだしました。

韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返したあとに、惨殺したと言われています。

この「済州島四・三事件」は、1949年の5月までつづいたのですが、李承晩大統領の韓国軍は、2万5千人から3万人ともいわれる島民を虐殺しました。
この虐殺から逃れるために、日本へ多数の移住者(密入国者)が渡ってきたのが、在日朝鮮・韓国人の多数を占めているといわれています。

李承晩政権による、共産主義への弾圧は「朝鮮戦争」の勃発によって加速していきました。
戦争がはじまると、各地に収監されていた共産主義者や、共産主義者リストに登録されていた人物、家族を反乱分子とみなし、虐殺が開始されました(保導連盟事件)。
保導連盟事件の被害者数は、60万人から120万人といわれています。

朝鮮戦争

1950年6月25日の早朝に、北朝鮮は宣戦布告なしに、38度線を越えて進軍を開始しました。これによって「朝鮮戦争」が勃発しました。
北朝鮮は、事前にソ連から軍事支援の同意をとりつけ、中国とは話し合いをして、準備万端で奇襲攻撃を仕掛けてきてたので、わずか2日で首都ソウルは陥落しました。

李承晩は、北朝鮮の進撃から逃げるために、6月27日にソウルの南に位置する、水原へ遷都しました。
この時に、北朝鮮軍がソウルより南下してくるのを防ぐために、漢江にかかる橋を住民ごと爆破します(漢江人道橋爆破事件)。
これによって、多くの韓国市民と、韓国軍兵士が取り残されました。そして、この味方をあっさりと切り捨てる行為は、韓国軍兵士の士気を下げてしまいます。
7月2日には、李承晩は釜山にまで逃げていました。しかも釜山の陥落にそなえて、日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようと考え、日本側にGHQを通じて要請をおこないました。

結局は、韓国軍は各地で敗戦を繰り返し、北朝鮮軍の南進は止められませんでした。というのも、北朝鮮軍は戦線が拡大していき、足りなくなった兵士を現地で集めて「人民義勇軍」として組織化していったのです。
この韓国領内での兵の徴集が「南北離散家族問題」の一因となりました。

李承晩は、国内での権力争いや、反対勢力の弾圧ばかりに気を取られ、外交での無策っぷりを明らかにし、7月14日には、大韓民国軍の指揮権を、マッカーサー国連軍司令官に移譲しました。

1950年9月15日に、マッカーサー国連軍司令官のもと「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」と「スレッジハンマー作戦」を決行し、国連軍(アメリカ軍・イギリス軍・韓国軍)として、大規模な反撃に転じ、戦局を一変させることに成功しました。
そして北朝鮮軍を、38度線より北に戻すことに成功します。

戦局優勢の状況をみて李承晩は、9月29日にソウルに帰還し、さっそく親北朝鮮とみなした市民への虐殺をおこないました。
さらに李承晩は、マッカーサーに相談もせずに「北進統一」を掲げ「ただちに軍を率いて北進すべし」という大統領命令をだしました。
マッカーサーも同じような意図をもっていたので、この李承晩の行為はあまり問題視せず、国連軍は北進をつづけていき、10月20日には北朝鮮の首都平壌を制圧しました。

北朝鮮の金日成は、ソ連軍の動員をスターリンに要請しましたが、国連軍との直接対決を回避したいスターリンは、毛沢東に支援を要請するよう促していました。
こうして次は、北朝鮮の支援軍として、中国共産党の人民解放軍が「人民義勇軍」として参戦してきました。

この中国参戦で、マッカーサーは、部下が情報の過小評価をおこなっていたり、自身も現地情報に乏しかったため、中朝軍に戦局を押し戻されました。
1951年1月4日には、中朝軍のソウル再占領を許してしまいます。

この結果をうけて李承晩は、アメリカのトルーマン大統領宛てに書簡を送りました。
その書簡の内容は、
「今ならまだ韓国軍は戦線を維持できます。しかしこの機を逃せば、中国と北朝鮮の共産主義者共は、我が軍を壊滅させ、反共主義勢力を滅ぼすでしょう。(中略)マッカーサーに、共産主義侵略を阻止する原子爆弾使用許可を与えるべきです。モスクワに原子爆弾を数発落とせば、世界の共産主義者共は震え上がるでしょう。」
というソ連の民間人を、大量殺戮する進言をおこなうものでした。

こうして朝鮮戦争の形勢が、変化していくなかで、釜山に逃亡しつつも李承晩は、国内では野党のスポンサー企業などに預金凍結などをおこない、反対勢力の弱体化に取り組んでいきます。
1952年1月18日には「李承晩ライン」を勝手に宣言し、日本漁船などの拿捕をおこないました。日本漁船の捕獲事件などによる日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら、韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりしたようです。

1952年に李承晩は、大統領の選挙制度を、国会議員による間接選挙から、国民による直接選挙へと改正することで、自身の再選を確実なものにしようと考え、憲法改正をおこなう改憲案を国会に提出しましたが、野党が多数をしめていた国会で、改憲案は否決されてしまいます。
そこで李承晩は、戦時下の釜山に戒厳令をしいて、反対する野党議員を大量検挙させました(釜山政治波動)。
これによって、残った与党議員で改憲案を可決しました。

しかし、この頃からアメリカは、自分たちの強烈な後押しで大統領にした、李承晩の排除を考え始めていたと、いわれています。
そして停戦への準備をはじめました。

1953年、国連主導での休戦案が出始めます。
すると李承晩は「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」と主張し、最後まで休戦に反対しましたが、国連は、そんな李承晩の主張は無視して、休戦への道筋をつくり、6月8日には両軍の「捕虜送還協定」が締結されました。
しかし、ここで李承晩は、アメリカに何の予告もせずに、捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令し、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5千人を、北へ送還せずに韓国内で釈放するといった暴挙にでます。そして早期休戦に断固反対し、アメリカを中心とした国連と対立を深めました。

こうした尊大で、身勝手な主張や行動をとりつづける李承晩でしたが、1953年7月27日には渋りながらも、休戦協定に同意しました。しかし、最後の抵抗として、自身では署名せずに、北朝鮮の代表とアメリカ軍中将が署名する、休戦協定となりました。

朝鮮戦争休戦後

反日教育

朝鮮戦争により、国は荒廃しました。そして、市民にたいしておこなわれた、弾圧や虐殺などから、李承晩政権にたいしての不満が高まり、日本統治時代への郷愁が、きこえてくることになりました。

これにたいして李承晩は、1954年10月14日、韓国の学生にたいし、日本帝国主義の侵略性と、その韓国への悪意を教えるよう命令しました。

四捨五入改憲

1954年の韓国の憲法では、大統領の任期は2期までとなっていました。
しかし、権力の座から降りるわけにはいかない(権力を手放すと仕返しされるのがわかっているため)李承晩は「初代大統領に限って3選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出しました。

1954年11月27日の国会投票で、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になりました。
可決には、議会の3分の2である135.33票以上、つまり136票が必要でした。よってわずかに1票届かず、改憲案は否決されるはずだったのです。

しかし、李承晩派の国会議長は「135.33票とは、社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えている」として改憲案の可決を宣言したのです。

大統領3選

そして1956年におこなわれた大統領選挙で、李承晩は、投票の10日前に対立候補だった、申翼煕が急死したため、大統領に就任することになりました。
一方で、同時におこなわれた副大統領選挙では、野党である民主党の張勉が当選します。こうして大統領と副大統領でねじれが生じました。

こうなると、李承晩の身にもしも何かがあれば、副大統領が繰り上げで大統領となるため、危機感を抱いた与党は、1956年9月に「張勉副大統領暗殺未遂事件」をおこし、翌年4月には、張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分させ、政敵の党首の処刑をおこなうなどの粛清を実効しました。

1959年12月4日には、日本政府による、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するため、李承晩政権はひそかに、日本にいる民団所属の在日韓国人と協力し、工作員を送り込んで「新潟日赤センター爆破未遂事件」を引き起こしました。

大統領4選

1960年に李承晩は、4選目を狙います。
そして野党の大統領候補者が、1960年1月に渡米した隙を狙って、李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を、2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定しました。

民主党の大統領候補は、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝してしまったことで、大統領選挙は李承晩の当選が事実上確定しました。
そのため与党の自由党は、副大統領候補の李起鵬を当選させることが最重要課題となりました。

大統領候補を失った民主党は、大統領候補が1名のみの場合は、その得票数が全有権者数の3分の1以上でなければならない、選挙法の規定を利用し、李承晩の得票数を3分の1未満に抑えることで、再選挙に持ち込み、張勉を大統領候補として、再選挙に持ち込む戦術を展開しました。

この選挙では、与党の不正工作は前回の大統領選挙よりも徹底されていきました。
なんとしても副大統領の当選を確実にするために、公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行したのです。

存在しない幽霊票や、金銭で買収した有権者に、事前に与党候補者の名前を記入させました。
また、裏切りをなくすためにの方法として、与党支持者はグループで投票に行き、投票所に配置された与党の地域リーダーに、投票用紙の確認をさせたりしました。
開票時には、混乱に乗じてあらかじめ準備した自由党候補票の束を混ぜて入れる、もしくは野党候補票を取り除くといった指示まで出ていました。

1960年3月15日に、こうして実施された選挙で、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が決まりました。

4月革命

こんな選挙に納得できない一部の野党民主党は「選挙放棄」を宣言しました。
これが不正選挙へのデモに発展し、市民も参加した大規模なものへとなっていきます。そしてデモ鎮圧にあたった当局は発砲をおこない、死者をだしていきました。
これに怒った市民や学生は、各地でデモをおこない、当局が鎮圧にのりだすといったことが繰り返されました。

1960年4月20日、マカナギー駐韓アメリカ大使が「民衆の正当な不満に応えないのなら、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒をおこないました。

こうしてアメリカから見放された李承晩は、4月23日に「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をします。
この李承晩の発言に、民衆の怒りは最高潮に達し、デモはさらなる拡大をみせていきました。
そして政府は、非常戒厳令を布告するといった事態に発展しました。

4月26日には、タコプル公園に設置されていた、李承晩の銅像が引き倒され、副大統領の李起鵬の邸宅が襲撃されました。
ここまできやっと、韓国国会は、大統領の即時辞任要求を、全会一致で採択しました。

1960年5月29日の早朝に、李承晩は妻とともに、金浦空港からアメリカ・ハワイに亡命しました。
韓国で李承晩の見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだったということです。

さいごに

こうして書いてきて思うのは、誰一人として優しい人がいないということです。

みんなが利己主義なのでは?
李承晩がメチャクチャで、何の理念も無く、己の保身ばかり(危なくなったら、自国市民、兵士を置き去りにして逃げたり、強者アメリカが助けてくれれば、その力を使って威勢よくなったり)という、どうしようもない人間なのは、そういう人もいるので仕方ないでしょう。

そもそも、そんな人間を大統領にしたのは、アメリカです。過去の大統領と近しい関係を築いていたとこから、自分たち側の人間と判断した責任はあるでしょう。
中東などでもそうですが、アメリカが支援して成立させた政権が、ずっと意のままに操れたことってあるのですか?(ありました、日本です!)

李承晩のスポンサーとなった、日本統治時代の実業家たちも、与党の議員たちも、自分たちの権益だけを守ろうとしすぎでしょ。
あまりの臆病さに、敵をいためつけて、仕返しされたら困るから、さらに痛めつけてって・・・恨みしか買わないでしょ。

国民も動くのが、遅すぎるでしょ!ソウルにいた市民たちは、済州島でおこっていた虐殺をどう思っていたのか?自分たちは関係ないと思って放っておいたのでしょ(秘密にされてたとか、共産主義のせいにしてたとかいいますが、日本にも大量の済州島民が流れてきているのに、朝鮮本土に情報がいかないなんてありえないでしょ!どうせ厄介ごとを嫌って目を瞑ったんじゃないでしょうか)。

結局のところ朝鮮には、国民国家を形成していく土台なんて、なかったのではないでしょうか?
ずっと長年どっかの国の支配下にあったので、国家の上の立場に就けば、支配階級として甘い汁が吸えるとでも思っていたのではないでしょうか。
民主主義をなめたらダメですよ!違う意見を持つものたちが集まって、話し合いで、ものごとを決めていくのがどれだけ大変なことか、分かってなかったんでしょうね。

こんな人間がはじめた反日教育を、いまだにありがたがって信じて、クレームばかりつけてくる、お隣さんって「騒音おばさん」みたいですね。

これ以上はやめておきます。読んでくれた方、ありがとうございました。

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