毛沢東の中国共産党

日中戦争時

第二次世界大戦では「日中戦争」として、大日本帝国と中華民国の戦争がおこなわれました。
当時の、中華民国のトップは、国民政府(中国国民党)の蒋介石です。
毛沢東が率いる中国共産党は、中国国内で中国国民党と対立を繰り返していましたが、一時休戦して、対日戦争を戦ったといわれています。というか言い張っています。

実際は、共産党の軍は、中華民国軍と日本軍が戦っているのを、傍観していることが多かったそうです。
共産党軍は、アメリカやソ連などの連合国側から、中国国民党軍とともに、対日本との戦いのために軍事援助をうけていましたが、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」とし、戦力の温存をしていました。

毛沢東は、蒋介石率いる中国国民党軍を、日本軍に倒してもらいたいと考えていました。実際、日本軍が南京(当時の首都)を陥落させたときは、大喜びして祝杯をあげたといわれています。
そして毛沢東は、日本軍と裏で手を結び、八路軍(中国共産党軍)の栽培するアヘンの販売を一緒におこなったり、商売も頻繁におこなっていました。しかし、一方ではアメリカ軍にたいして、情報の提供や土地の提供をおこなっていました。

こうして毛沢東は、蒋介石は日本軍に弱らせてもらい、日本軍はアメリカにやっつけてもらい、最終的には自分が権力を握るという構想で動いていました。

日中戦争終戦後

1945年8月15日に、日本が降伏して終戦すると、毛沢東と蒋介石は重慶で会談をおこないます。
この話し合いは長引きましたが、10月になってようやく「双十協定(中国国民党と中国共産党が、分裂をやめて統一政権の樹立を目指すといった内容の協定)」というかたちでまとめられました。

こうして、アメリカのジョージ・マーシャル将軍の立ち合いのもとで、中国国民党は「政治の民主化」と「各党派間の争いをなくし、平等性と合法性を高める」ことを約束し、中国共産党は「蒋介石の指導」と「中国国民党指揮下での統一国家の建設」を約束しました。

しかし「双十協定」が調印されたその日に、山西省南部で「上党戦役(国民党軍と共産党軍の交戦)」が起こり、中国国民党軍が大打撃をうけてしまいます。
そして、この後も小競り合いがつづいていき、両者の緊張関係は継続していました。

1946年に1月には「双十協定」にもとづき、各党派の代表が集まって、政治協商会議を重慶で開催しました。
この会議では「憲法改正案」「政府組織案」「国民大会案」「平和建国綱領」などが採択されます。
そして、中国政府の最高機関であった「国民政府委員会」の委員の半数を、中国国民党以外の党派にわりあてられることが決まりました。

国共内戦

中国国民党の蒋介石は、1946年3月に開催した党大会で、中国国民党の「指導権の強化」を決議しました。
そして、6月26日に国民革命軍(実質は中国国民党軍)に、中国共産党支配地域への全面侵攻の命令をくだします。これによって中国は「国共内戦(中国国民党と中国共産党による内戦状態)」に突入しました。

この中国共産党への侵攻にたいして、アメリカは蒋介石を非難しました。この流れに乗じて毛沢東は「アメリカの蒋介石への軍事援助に反対する声明」をだし「一切の軍事援助の即時停止と、中国国内におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求しました。
これをアメリカのトルーマン大統領は了承します。

こうして国共内戦はつづくのですが、戦局は徐々に、ゲリラ戦に持ち込んでいった中国共産党軍が、有利に進めていきます。しかしこれには理由があり、毛沢東は、アメリカから蒋介石への支援をやめさせましたが、中国共産党軍は、ソ連からの支援をうけていました。

1947年9月には、中国共産党軍の八路軍は「人民解放軍」に名称を変更しています。
そして人民解放軍は、手厚いソ連の支援をバックに快進撃をつづけ、1949年1月に北京を制圧し、4月には当時の首都であった南京も制圧することに成功しました。

中華人民共和国建国と台湾

1949年9月には「中国人民政治協商会議」を北京で開催し、全国から著名な有識者や、各党派の代表を集めました。
そしてここで、新国家の臨時憲法として「中国人民政治協商会議共同綱領」を採択して、国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任し、北京を首都と定めました。

この臨時憲法で中華人民共和国は「人民民主主義国家」と定めていましたので、現在の中国とは違い、共産党の一党独裁ではありませんでした。
国家元首には毛沢東、そして首相には周恩来が就きましたが、中央人民政府副主席の半数は非共産党系でした。

一方で蒋介石は、1949年12月に台湾にたどり着き、中華民国の首都を、台北に遷都することになりました。
この時アメリカは「蒋介石は無能であり、毛沢東率いる人民解放軍にやられるのは時間の問題だ」と考えていましたので、トルーマン大統領は、台湾への不介入を発表しました。

しかし、共産党勢力の拡大を危惧していた、アメリカ共和党議員を中心に「トルーマン大統領の無策が、中国を共産党国家へと変貌させ、このまま台湾までも共産党側に渡すのは反対だ」という声が高まってきます。
蒋介石は、この流れによりアメリカが介入してきてくれるのを期待していたようです。

そして、1950年6月25日に、金日成が率いる北朝鮮の軍が、38度線を越えて韓国に侵攻しました。こうして朝鮮戦争が勃発します。

この朝鮮戦争勃発をうけてすぐに、トルーマン大統領は、台湾への不介入宣言を撤回して、台湾海峡の中立化を名目に「第七艦隊」を派遣しました。
10月には、毛沢東は台湾制圧は一時取りやめ「(北朝鮮への援軍)人民義勇軍」として朝鮮半島に兵をおくります。

中国共産党の独裁開始

中華人民共和国建国当時は、各党との協調路線を選んでいた毛沢東でしたが、首席就任後、急速にソ連のスターリンとの仲を深めていったからなのか、1952年の9月に突如として、社会主義への移行を表明しました。
そして1953年1月には、ソ連型社会主義計画経済をモデルにした「5カ年計画(5年の期間で達成すべき目標とその手法について定めた長期的な計画)」をスタートさせました。

1954年9月には、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として「全国人民代表大会」を設置し、「中華人民共和国憲法」が正式に制定しました。
そして、新たに創設したポスト「国家主席」に毛沢東が就任し、中華人民共和国政府の要職は、中国共産党が独占し、現在にもつづいています。

さいごに

今回は「中国共産党が独裁体制を確立するまで」をかきました。

中国共産党の幹部だった周恩来は、毛沢東が急に社会主義に移行したことに、かなり戸惑っていたそうです。
周恩来は、アメリカのキッシンジャーに「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人とされ、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評されています。

台湾は親日が多いといわれています。
これは、日本統治時代にインフラなどの整備をしたのもあるでしょうが、おそらく一番の理由は、蒋介石が嫌われているからでしょう。
蒋介石は、国民党軍を連れて台湾にやってきましたが、国民党軍は汚らしく横暴で、かなり評判が悪かったようです。さらには台湾に住んでる市民への弾圧、虐殺をおこないました(二・二八事件)。
そのため台湾では「アメリカは日本に、原爆を落としたが、台湾には、蒋介石を落とした」といわれています。

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