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2018年の9月に「中核派・全学連大会(中核派系の全日本学生自治会総連合定期全国大会)」が開かれ、同大会で全学連委員長に、現役東大生で逮捕歴のない高原恭平氏が就任することが発表され、副委員長には現役京大生、書記長にも現役京大生がそれぞれ就任しました。
高原氏はインタビューで、小学生の頃から政治に関心を持ち、貧困や格差の問題について疑問を抱いていたと語っています。
また、SEALDsがおこなったデモにたいしては、違和感があったと答え、ストライキのほうが効果的だったとの見解を示し、今後は、ゼネスト(全国規模のストライキ)を打って革命を目指すと述べています。
それでは、「中核派・全学連」を傘下におさめている「中核派」とは、いったいどんな組織なのかを見ていきましょう。
中核派の結成
中核派とは、1957年に設立された新左翼とされている組織で、正式名称を「革命的共産主義者同盟全国委員会」といいます。
この組織は、トロツキー(ロシア革命成功の立役者で、スターリンと対立し暗殺された人物)への評価や、第四インターナショナル(トロツキーの呼びかけで結成された国際共産主義組織)への合流などを巡り「革命的共産主義者同盟(革共同)」内での対立から、分裂してできた組織である「日本トロツキスト同志会」から、さらに分裂してできた組織です。
そして1963年に、この中核派から分裂してできた組織が「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)」ということになります。
中核派の分裂は、党建設方式や労働運動戦術を巡り、本多派(中核派の最高指導者、本多延嘉を支持する派閥)と、黒田派(後に結成される革マル派の最高指導者、黒田寛一を支持する派閥)が対立したことで起こり、この分裂時に、松崎明(後のJR総連副委員長)も黒田とともに中核派を脱党し、革マル派の結成に参加しています。
中核派の思想や主張
中核派の思想は「反帝国主義・反スターリン主義」で、目的には「反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命」が掲げられていましたが、2009年の綱領草案で目的が「資本主義・帝国主義の完全打倒=プロレタリア世界革命の完遂と階級社会の廃止、真の人間的な共同社会=共産主義社会の建設」となりました。
そして、そのためには非合法・非公然でマルクス主義の「世界単一の労働働者階級の党」が必要であるとしており、日本帝国主義打倒、天皇制粉砕、アメリカ帝国主義打倒、中国スターリン主義打倒、などの主張をしています。
1960年代には「安保闘争」や「沖縄返還闘争」などで、警察の機動隊との衝突を繰り返していきます。
こうした、闘争や大規模デモをおこなっていた新左翼の組織の中で、中核派は、動員力や戦闘性において群を抜く存在であり、「暴力革命」や「資本主義国家の転覆」などを、声高らかに叫んでいましたが、所持していた武器は「ゲバ棒」と呼ばれる角材でした。
1968年から1969年にかけては、東京大学において、医学部処分問題(インターン制度廃止を軸とした研修医の待遇改善運動)や、大学運営の民主化などの課題を巡り「東大闘争」とも呼ばれる紛争が起こり、「東大安田講堂事件」と呼ばれる講堂の占拠がおこなわれます。
この安田講堂の占拠事件には、中核派と革マル派も参加していましたが、警視庁が8個機動隊を動員して封鎖解除をおこなう直前に、籠城していた革マル派が逃亡してしまいます。
中核派VS革マル派
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革マル派の「敵前逃亡」は、中核派をはじめ、他の新左翼組織からも後ろ指をさされることとなるのですが、ここで革マル派は「暴力的党派闘争による他党派解体と勢力拡大」を目指す路線にシフトし、中核派や他の新左翼、さらにはノンセクト(党派思想を持たない活動家)にたいしてまで、暴力的襲撃を開始します。
こうして新左翼組織同士で、もとは同組織だった中核派と革マル派の「内ゲバ(内部抗争)」は激化していき、「東京教育大学生リンチ殺人事件」、「関西大学構内内ゲバ殺人事件」、「中核派書記長内ゲバ殺人事件」などの凄惨な事件が繰り返されていくことになります。
そして、こうした凄惨な事件が報じられていくたびに(もちろん連合赤軍によるリンチ事件も含め)、学生運動の参加していたノンセクトの者たちが離脱していき、こうした運動や思想に一定の理解を示していた市民たちからの支持も失っていくことになりました。
※連合赤軍による「総括リンチ事件」や「あさま山荘事件」、そして「よど号ハイジャック事件」などは、世間に大きなインパクトを与えました(詳しくは若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』をご覧ください)。
ちなみに、この中核派と革マル派の抗争では、100人近くの死者がでています。
中核派のゲリラ闘争から現在まで
1980年代に入ってからは、お互いに多数の死者をだすことになった、革マル派との抗争も落ち着きましたが、この頃には、すっかり大衆の支持は失われていたため、「ゲリラ闘争」に活路を見いだそうと「テロ行為」を繰り返すようになります。
そして、運輸省の幹部宅や、新東京国際空港公団(現在の成田国際空港株式会社)幹部職員宅などに対する「爆破・放火・放火未遂ゲリラ事件」や、敵とみなした人々の個人情報や弱みを調べ上げ「共有・拡散」と称して不特定多数の人々に対し流出させて無用の紛議を煽り、事業を続けられないようにしたり、精神的なプレッシャーをかけて、中核派の要求を呑ませるという「嫌がらせ問題」を起こします。
さらには、自由民主党本部放火襲撃事件や、空港施設などを狙った火炎瓶や火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件、警察署襲撃事件、警察官居宅への放火ゲリラ事件などを起こしていきました。
1985年頃からは、圧力釜爆弾・時限発火装置の製造や、飛距離が数キロメートルに及ぶ迫撃弾・ロケット砲も使用するようになり、皇居の爆破未遂事件まで起こしています。
こうして「ゲリラ闘争」に突き進んでいった中核派は、複数のゲリラ事件で一般人の巻き添えと犠牲者を出しています。
アジトでの爆弾製造中に、取り扱いをあやまって誤爆させ、同アパートの住人2名を死亡させたり、成田闘争関係でも、成田用水事業の請負業者社長宅を放火したのですが、この社長宅のほかに無関係の近接した住宅2棟も全焼させました。
当然ながら、こうした中核派の行為は、警察からの厳しい取り締まりをまねき、運動の孤立化を強める結果となっていき、1991年には、「将来の革命情勢に備えて、テロ・ゲリラ戦術を行う技術力を堅持しつつも、当面は武装闘争を控え、大衆闘争を基軸に党建設を重視する」との方針を決めた「五月テーゼ(テーゼとは綱領の意)」を打ち出します。
ここからは「歴史教科書問題」にたいして、(自虐史観を守る立場で)積極的に介入したり、地方選挙を中心に、ある特定の候補者を支援したりしています。
ちなみに、2013年の参議院選挙では「山本太郎」を支援しています。
そして現在でも、毎年のように1、2件の事件を起こしては、メンバー数人が逮捕されています。