詳しい明治維新についての記事はコチラです。
薩長とは?
明治維新を中心となって成功に導いた「薩摩藩(現在の鹿児島県)」と「長州藩(現在の山口県)」のことです。
薩摩藩
1863年には「薩英戦争」をおこない、薩摩藩は単独で、当時は世界最強といわれていた、大英帝国(イギリス)とやり合いました。
明治維新という一連の変革で、当初は、朝廷と幕府の結びつきを強めようと考えていた、公武合体派でしたが、考えを改めて対立していた長州藩と「薩長同盟」を結び、武力討幕派へと傾倒していきました。
長州藩
急進的な武力討幕派で、何度も幕府から目をつけられて、弾圧の対象とされていました。
1863年と1864年の2度に渡って「下関戦争」をおこない、イギリス、フランス、、オランダ、アメリカの、四国連合艦隊と戦いました。
ということで、この2藩は、討幕運動の中心となりましたが、それのみにとどまらず、外敵を退けようとする思想であった、攘夷を決行した藩でもあります。
そして、ここに土佐藩(現在の高知県)と、肥前藩(現在の佐賀県)の2藩を加えた4藩は「薩長土肥」と呼ばれ、明治政府の主要ポストの多くを独占しました。
明治時代の総理大臣
初代、5代、7代、10代内閣総理大臣
伊藤博文(長州藩、山口出身、松下村塾生)
大日本帝国憲法の起草の中心となったり、外交では、日清戦争の勝利に伴い「日清講和条約」の起草・調印によって、朝鮮の独立を清国に認めさせました。
1909年、朝鮮民族主義活動家の朝鮮人、安重根によって暗殺されました。
2代内閣総理大臣
黒田清隆(薩摩藩、鹿児島出身)
戊辰戦争では、北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で、新政府軍の参謀として指揮を執りました。
西南戦争では、熊本城の解囲によって功を立てました。翌年に、大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となりました。
3代、9代内閣総理大臣
山県有朋(長州藩、山口出身、松下村塾生)
下級武士の子として生まれましたが、高杉晋作が創設した奇兵隊では、ナンバー2である軍監となり、戊辰戦争で功を立てました。
明治政府では、陸軍・内務省のトップを歴任し、伊藤博文に匹敵する、長州藩閥の最有力者となりました。
4代、6代内閣総理大臣
松方正義(薩摩藩、鹿児島出身)
大蔵大臣を長期間務めて、日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残しました。
8代、17代内閣総理大臣
大隈重信(肥前閥・佐賀藩、佐賀出身)
佐賀藩の上士の家に生まれ、明治維新期には、外交などで手腕をふるったことで、中央政府に抜擢されました。
早稲田大学の創設者であり、初代総長を勤めました。
11代、13代、15代内閣総理大臣
桂太郎(長州藩、山口出身)
戊辰戦争に従軍し、2度のドイツ留学で、ドイツの軍政の調査と研究に従事しました。
ながらく歴代一位となる、総理大臣在職日数でしたが、2019年11月20日に、安倍晋三によって更新されました。
12代、14代内閣総理大臣
西園寺公望(元公家、京都出身)
戊辰戦争では、官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には、伊藤博文の腹心を務めました。
内閣総理大臣の伊藤博文が病気療養中は、内閣総理大臣臨時代理を務めました。
教育にも尽力し、自らが創設した私塾立命館は、現在の立命館大学の礎となっています。
このように、討幕運動に多大なる貢献をした薩長の両藩は、明治の内閣総理大臣の座を、ほぼ独占していました。
そして、元長州藩の山口県は、明治から現在までの都道府県別「首相通算在任期間」では、3割以上を占めています。
歴代の「内閣総理大臣」出身都道府県トップ3
第1位 山口県 8人 12.9%
主な人物は
伊藤博文、山県有朋、桂太郎、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三など
第2位 東京都 5人 8.1%
高橋是清、近衛文麿、東条英機、鳩山一郎、菅直人
第3位 岩手県 4人 6.5%
原敬、斉藤実、米内光政、鈴木善幸
第3位 群馬県 4人 6.5%
福田赳夫、中曾根康弘、小渕恵三、福田康夫
主な関係性
岸信介と佐藤栄作は兄弟で、安倍晋三は岸信介の孫です。
また安倍晋三は、麻生太郎とも遠い親戚関係にあります。
麻生太郎の祖父は吉田茂で、吉田茂の祖父は大久保利通です。
高橋是清の娘は、大久保利通の息子(八男)と結婚しています。
近衛文麿は、平安時代の公卿であった藤原忠通を始祖として、後陽成天皇の血をひき、孫には細川護熙がいます。
安倍晋三と麻生太郎の両家を軸に、家系図をたどっていくと、吉田茂、鳩山一郎、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、三木武夫、鈴木善幸、宮沢喜一、細川護煕、橋本龍太郎、鳩山由紀夫と、戦後の総理大臣のうち、なんと13人もの繋がりがあり、まさに、日本政界を支配していることがうかがえます。
また、麻生太郎の妹は、三笠宮寬仁親王に嫁いでいますので、三笠宮家を通じて細川家、近衛家と親戚になっています。
さらに、麻生太郎の嫁の父は鈴木善幸です。
この鈴木家は宮沢家、岸田家と親戚にあたり、宮沢家からはブリヂストン創業家の石橋家、そして政界の名門・鳩山家や池田勇人へと連なります。
三菱財閥
土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤にして、明治政府からの保護をうけて海運業を独占し、三井・住友と並ぶ「三大財閥」にまで成長しました。
岩崎弥太郎は、各藩が発行していた藩札を、新政府が買い上げることを事前に、土佐藩出身の後藤象二郎から情報を得ていたので、十万両の資金を都合して、藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて、莫大な利益を得ました。
弥太郎は、明治維新前後の土佐藩の商事部門を実質的に担っていましたが、土佐藩が商事部門から撤退を余儀なくされたので、その後は海運業を主業としました。
そして、県から土佐藩所有の船三隻を買い受けて、1873年に「三菱商会」と改称し、海運と商事を中心に、事業を展開していきます。
当時、欧米の海運会社が独占していた、内外航路から外国汽船会社を排除するために、明治政府の保護を受けて「郵便汽船三菱会社」と改称し、1875年には、日本上海間の定期航路をひらき、荷為替金融を開始するなどして、激しい運賃競争の末、米国パシフィックメイル汽船会社と、英国P&O汽船会社を撤退させることに成功し、さらに西南戦争では、軍事輸送の主役を担い、さらなる巨万の富を手に入れました。
こうして弥太郎は、裏で後藤象二郎を通じて、最大の権力者大久保利通や大隈重信といった、政府要人の後ろ盾得ながら、西南戦争の政府側の軍隊と軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結で残った軍需品の処分までもまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになりました。
政府が西南戦争で支払った戦費は、4150万円といわれていますが、そのうちの1500万円が、三菱の儲けでした。
第二次世界大戦後、GHQによる財閥解体政策によって、三菱商事は解散させられますが、解体前の三菱財閥の総資産は、現在価値に換算すると、推定120兆円と考えられています。
しかし、現在でも三菱グループは、三菱商事、三菱重工業、三菱UFJ銀行の「三菱グループ御三家」を筆頭として、多数の日本を代表する企業が名を連ねています。
このように、明治維新がもたらした影響は、とてつもないといえますね。
まさに「勝てば官軍負ければ賊軍」です。
ということで、今回の記事は、ここでおしまいにしますね。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。それでは、さようなら。