明治維新とは?

長きに渡って、日本の支配権を有していた「徳川家」が、政権返上を天皇に申し入れたこと(大政奉還)によって、明治天皇から「王政復古の大号令」が発せられ、1868年に「明治政府」が誕生するまでの流れを指しています。

この記事では「明治政府誕生までの主な出来事」を、解説していきます。

1853年(嘉永6年)ペリー来航

代将(海軍大佐の上の階級)マシュー・ペリーが、アメリカ海軍東インド艦隊の、蒸気船2隻を含む艦船4隻を率いて、日本に来航した事件です
当時のアメリカは、日本に開国を迫りました。これは、クジラ漁をオホーツク海でおこなっていたことや、東アジアへの進出をするために、寄港できる港が欲しかったためです。
その艦隊は、江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、これにたいして幕府は、ペリーらの久里浜への上陸を認めました。

そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年のアメリカに(他の国が、より良い条件で条約を締結したら、自動的に適用される)最恵国待遇を与えた「日米和親条約」締結にいたりました。

さらに「日米和親条約」締結の翌年(1855年)には、ロシアの全権代表であるプチャーチン提督と「日露和親条約」を締結しました。

1856年(安政3年)タウンゼント・ハリス来日

1855年に、大統領フランクリン・ピアースから、初代駐日領事に任命されたタウンゼント・ハリスは、1856年に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港してきました。
そして、日本にたいして「日米修好通商条約」の締結を迫ってきました。

この条約によって日本は、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大阪での貿易取引を認め、開港地では外国人が滞在できる場所を制限し、日本で罪を犯したアメリカ人は、日本ではなくアメリカのルールで裁くことになり、輸入品・輸出品の関税は、アメリカが一方的に決めることができるようになりました。

このように日本は、ハリスに軍事力をチラつかされながら、アメリカに治外法権を認め、関税自主権の欠如した「日米修好通商条約」という、不平等条約を1858年(安政5年)に結んでしまいました。

1857年(安政4年)松下村塾開塾

松下村塾とは、吉田松陰が27歳のときに、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)で、指導した私塾です。
29歳で刑死した松陰をはじめ、この塾の塾生の多くが、幕末の動乱期に若くして死にました。
また、維新後にも多くの門下生が(1876年)萩の乱に参加して刑死し、創設者の玉木文之進も責任を取る形で切腹死しています。

門下生には、尊王攘夷の中心人物「久坂玄瑞」、長州藩を倒幕に方向づけた「高杉晋作」、初代内閣総理大臣「伊藤博文」、第三代内閣総理大臣「山縣有朋」などがいました。

1858年には長州藩の公認塾となりますが、吉田松陰が実際に教えた期間は1年余りでした。
1858年の末に起こった井伊直弼による「安政の大獄」で、松陰は投獄され、塾生たちも京や江戸にでていき、塾は閉鎖されました。

1858年(安政5年)安政の大獄

江戸幕府の大老「井伊直弼」らが、天皇の許可を得ずに「日米修好通商条約」に調印したことや、将軍の後継ぎを「徳川家茂」に決定したりしたことに、反対する者たちを弾圧した事件です。
弾圧されたのは、尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、その人数は100人以上にのぼりました。
形式上は、第13代将軍・徳川家定が命令を発して、全ての処罰をおこなったことになっていますが、実際には井伊直弼が、全ての命令を発しました。

水戸藩(現在の茨城県中部・北部を治めた藩)の重鎮を中心に処刑がおこなわれ、各藩主が隠居させられましたが「桜田門外の変」において井伊直弼が殺害されたため、弾圧は収束をむかえました。
そして、1862年(文久2年)には、勅命をうけ将軍後見職についた徳川慶喜と、政事総裁職についた松平春嶽によって、井伊家と弾圧・取り調べをした者が処罰され、大獄によって幽閉されていた者の、釈放がおこなわれました。

1860年(安政7年)桜田門外の変

江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で、水戸藩からの脱藩者17名と、薩摩藩士1名が、彦根藩の行列を襲撃し、大老「井伊直弼」を暗殺した事件です。
この襲撃の一部始終を、つぶさに見ていた水戸藩士畑弥平は、襲撃から直弼の首をあげるまで「煙草二服ばかりの間」とのちに語っており、襲撃開始から直弼殺戮まで、わずか十数分の出来事でした。

事後処理について

当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっています。
これは、譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、直弼によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらなる制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐためになされた、老中「安藤信正」ら幕府首脳による破格の配慮でした。
こうした事情があり、直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届けが幕府へ提出され、その後約2か月間、幕府側は直弼の死を公表しませんでした。

1862年(文久2)生麦事件

1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した、騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件です。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となってしまい、その処理のもつれから翌年に、薩英戦争が起こりました。

事件の経緯

島津久光は、幕政改革を志して、700人にのぼる軍勢を引き連れて、江戸へ出向いたのち(文久の改革)、京都へ帰る途中で、行列が生麦村に差しかかり、4人の騎馬のイギリス人と行き会いました。
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで、下馬し道を譲るように説明しましたが、イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思いこみます。
しかし、行列は道幅いっぱいに広がっていましたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進みました。
鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗るカゴのすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたのですが、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動きました。その時、数人が斬りかかったのです。

そして1人はその場で死亡し、残りの3人は神奈川のアメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込み助けを求めました。

大名行列に対する外国人の「不作法」については、久光らは江戸に到着して間もない6月23日、幕府に訴え書きを提出していました。
その文面によれば、往路ですでに、久光の行列は騎馬の外国人に遭遇していたところ、狭い東海道において、大名一行の通行にかまわず、横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というものでした。
続けて「少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合は、そのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法は慎むように達して欲しい」と訴えています。
それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣も違うことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というものでしたが、実際にはそのような通達を出していませんでした。

イギリスの対応

1863年、イギリスは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求しました。
さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び、賠償金2万5千ポンドを要求することを通告しました。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港しました。

事件の評価

この事件が起こる前に、島津久光の行列に遭遇していた、アメリカ人商人で、元ハワイ駐日総領事のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬し、馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しました。
そして、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べています。

当時の「ニューヨーク・タイムズ」は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で、日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか、日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評しています。

1863年(文久3年)薩英戦争

生麦事件の解決と補償を、艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに、兵制の近代化で培った実力で、これを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した戦争です。
この戦争によって薩摩側は、鹿児島城下の約1割を焼失したほか、砲台や弾薬庫に損害を受けましたが、イギリス軍も、旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死や、軍艦の大破・中破など大きな損害を被りました。

結局は、島津家が2万5000ポンドに相当する、6万300両を幕府から借用して支払いましたが、これを幕府に返しませんでした。
また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰しませんでした。

イギリスは、講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、以後は関係を深めていくようになります。
薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていきました。

1863年(文久3年)浪士組(のちの新撰組)が結成

幕末の京都は、政治の中心地でしたので、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた「京都所司代」と「京都町奉行」だけでは防ぎきれないと判断した幕府は「清河八郎」の進言により、京都の治安維持のため、浪士組の結成を企図しました。
江戸で求人したあと、京都に到着後、清河が勤王勢力と通じて、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚します。
清河の計画を阻止するために、浪士組は江戸に戻ることとなりましたが、近藤勇、土方歳三を中心とする「試衛館派」と、芹沢鴨を中心とする「水戸派」は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張しました。

この京都の壬生村に残った派閥が一つになり、新撰組の前身である「壬生浪士組」を結成し、江戸に戻ったメンバーは「新徴組」を結成しました。
そして壬生浪士組は「八月十八日の政変」の警備に出動し、その働きを評価され、新たな隊名「新撰組」を拝命しました。

八月十八日の政変

1863年9月30日(文久3年8月18日)に発生した政変です。
幕府への攘夷委任(通商条約の破棄や再交渉)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を、朝廷から排除したカウンタークーデターです。
つまり、強引で過激な攘夷をおこなう「長州派」を、朝廷と幕府による「挙国一致体制派(会津藩と薩摩藩)」が、京都から追い出した事件です。

この時に新撰組は、会津藩のお預かりとなっていましたので、出動して警備をおこないました。

池田屋事件

1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町の旅館「池田屋」に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織だった新撰組が襲撃した事件です。

攘夷派の志士を捕らえた新撰組は、土方歳三の拷問によって「祇園祭の前の風の強い日を狙って、御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」という自白をえます(この自白は新撰組の捏造だともいわれています)。

土方歳三は、応援に駆けつけた、会津藩や桑名藩にたいしては、手柄を横取りされないように、戦闘地に近づけないようにしました。
そして、この事件によって、長州の攘夷派幹部の多くを殺し、捕らえたので、新撰組は「御所焼討ちを未然に防いだ英雄」として名をあげました。

禁門の変

1864年8月20日(元治元年7月19日)に、京都で起きた武力衝突事件です。「蛤御門の変」「元治の変」とも呼ばれています。

前年の「八月一八日の政変」により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件です。
畿内における、大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣以来であり、京都市中も戦火により、約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件となりました。

こうして京都へ兵を進めた長州藩ですが、これに対しては藩内でも賛成派と反対派で意見の対立がありましたが「池田屋事件」によって、一気に出兵の流れに傾きました。
そして、大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなります。
一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなりました。

新撰組は、京都の南の入り口であった東九条村の農家に1ヶ月前から宿泊し、この地で長州軍と鉄砲の撃ち合いとなり、これを撃退したとされています。

組織の拡大

1864年に「池田屋事件」と「禁門の変」での働きで、朝廷・幕府・会津藩から感状と、200両あまりの恩賞を賜り、同年9月には、第二次の隊士募集をおこなうこととなりました。
こうして総勢200名にまで増強された新撰組は、本拠地を壬生から西本願寺に移転し、長州征伐への参加にむけて、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)の導入や軍中法度も制定しましたが、新選組に出動の命令が下ることはありませんでした。

降伏と消滅

1867年(慶応3年)10月に将軍「徳川慶喜」が大政奉還をおこない、新選組は旧幕府軍に従い「戊辰戦争」に参加しますが「新政府軍」に敗戦し、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下していきました。
その後も、幕府側にたって各地で戦闘をおこないましたが、敗戦が続き、近藤勇は処刑され、沖田総司は持病で病死、斎藤一は離隊、土方歳三は銃弾を受け戦死しました。

1864年(元治元年)四国連合艦隊下関砲撃事件

1864年9月(元治元年8月)に、イギリス・フランス・オランダ・アメリカと長州藩のあいだで起こった武力衝突です。
前年の1863年に、長州藩は単独で攘夷を決行し、馬関海峡(現在の関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を開始しました。
その約半月後には、報復としてアメリカ・フランス軍艦が、馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えます。
しかし、長州は砲台の修復と、新たな砲台を築き、海上封鎖を続行しました。

海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは、長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定しました。
フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、合計17隻の艦船で、連合艦隊を編成しました。
そしてこの艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃し、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊しました。
戦後、長州藩は(幕府が朝廷への建前上やむなく出していた攘夷の)幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は、徳川幕府のみが負うこととなりました。

馬関海峡の砲台を、四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する方向に進みます。

1866年(慶応2年)薩長同盟

当時の薩摩藩と長州藩は、どちらも勢力の強い藩でしたが、急進的な攘夷論で反幕府姿勢の長州と、公武合体の立場から開国を求める薩摩は、どちらも相容れない存在でした。
そんな2つの藩が政治的・軍事的に手を結んだのが「薩長同盟」です。

薩摩藩は「八月十八日の政変」では、会津藩と協力して長州藩勢力を京都から追放し、「禁門の変」では、出兵してきた長州兵を撃退し、「第一次長州征討」にも参加していましたので、長州を窮地へと追いやっていった立場でした。
しかし、薩摩藩も主張とする幕政改革の展望を開くことができず「大久保利通」や「西郷隆盛」らを中心に、幕府に対する強硬論が高まっていってました。

そんな薩摩と長州のあいだを取りもったのが「坂本龍馬」や「中岡慎太郎」です。
1866年3月7日(慶応2年1月21日)に、京都で6カ条の提携に合意し同盟を結びました。

薩摩藩はこの同盟にもとづいて、幕府による「第二次長州征討」への出兵を拒否しています。
そして「薩長同盟」によって、最新式の武器や艦船を手に入れた長州藩は、15万という大軍でやってきた幕府軍にたいして勝利をおさめました。

1867年(慶応3年)討幕の密勅

1867年5月に、薩摩藩は四侯会議の設置と、その実行を画策しました。
四候会議とは、薩摩や土佐など有力藩の前藩主ら四賢候で、政策立案などをおこない、徳川慶喜に対する諮問機関として、幕府からの政治主導権の奪取を試みようとした会議です。
しかし、四賢候のたくらみは、徳川慶喜の巧みな政治力によって、潰されてしまいました。
そして、薩摩藩は公議政体論・公武合体派から武力倒幕派へと傾倒していきました。

討幕の密勅とは、1867年11月9日に、薩摩藩と長州藩にそれぞれにくだされた「徳川慶喜」討伐という内容の、天皇からの命令です。
それぞれに、天皇家や公家・皇族の署名がありますが、主導的な役割を果たしたのは「岩倉具視」でした。

しかし徳川慶喜は、10月14日に大政奉還し、翌15日に朝廷に受理されたので、討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が、10月21日に薩長両藩に対し下されました。
その後も岩倉や薩長両藩は、徳川慶喜討伐を模索して「王政復古の大号令」や「鳥羽・伏見の戦い」にいたります。

1867年(慶応3年)大政奉還

江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」が、政権返上を慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、明治天皇へ奏上し、翌15日に、天皇が奏上(天皇にお伺いを立てた事)を勅許(天皇から許しを得た事)した事。

江戸時代、徳川将軍家は、日本の実質的統治者として君臨していましたが「天皇が将軍に国家統治を委任している」とする大政委任論も広く受け入れられていました。
しかし、幕末になると朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における、幕府との不一致によって、幕府権力の正統性が脅かされていき、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになりました。
そして、幕末の朝廷と幕府の交渉で大政奉還しましたが、大政奉還の時点では、慶喜は征夷大将軍職を辞職していません。

徳川家としては、大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とた大名らによる公議政体体制を樹立することにありました。
しかし、大政奉還後に想定された大名会議が実現しないあいだに、薩摩藩を中核とする討幕派によるクーデターが起こったのです。

1868年(慶応3年)王政復古の大号令

1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、徳川慶喜による大政奉還により、武力倒幕への道が断たれそうになった、岩倉具視を代表とする公家や長州、薩摩などが、起死回生を狙った、クーデター宣言ともいわれています。

大政奉還がなされても、将軍職辞職はなされず、幕府に変わる行政機関や、会議も設置されませんでした。
結果は、何も変わらずに徳川慶喜が政務を担当して、そうしているうちに、幕府存続派が大政再委任を要求するまでに巻き返し、政局は混乱を極めました。
さらに、慶応3年11月には、武力倒幕派と公議政体論・公武合体派の繋ぎ役を果たしていた「坂本龍馬」が暗殺されてしまい、武力倒幕派の強硬派が多数を占めるようになります。

朝廷は、有力大名を集めて会議をおこない、合議により新体制を定めることとしましたが、倒幕派の岩倉具視や薩摩藩には、この会議も慶喜を支持する勢力が大きければ、結局新体制は、慶喜を中心とするものになってしまうという懸念がありました。

この混乱を極める現状打破のために、長州・薩摩・芸州の三藩は出兵同盟を締結し、慶応3年12月に、岩倉具視は薩摩・土佐・安芸・尾張・越前5藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言します。
ついに1968年1月3日(慶応3年12月9日)には、この五藩の兵が御所の城門を封鎖し、岩倉具視が「王政復古の大号令」で新政権の樹立を宣言しました。

この大号令によって、将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止、摂政・関白等の廃止、総裁・議定・参与の三職の設置、適切な公議をつくすことが宣言され、新政府が成立しました。
これにより、徳川慶喜の実質的な政治的権力は失われてしまいました。

1868年(慶応4年)戊辰戦争

1868年戊辰の年に、鳥羽・伏見の戦いで始まり、翌年の五稜郭の戦いで終わる、新政府軍と旧幕府軍との内戦のことをいいます。
戊辰とは十干・十二支を組み合わせて表した干支で、戊辰の年に起こった戦いという意味です。

新政府側は、イギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていました。
そして旧幕府は、フランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟は、プロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていました。
このように、お互いがバックに欧米の列強国をつけて戦いましたが、新政府軍が勝利するかたちで、この戦争は早期に終結してくれたため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられました。

「勝てば官軍」とは、 勝負ごとに勝ってしまえば、過程がどうであれ正義となることを指すことわざです。
正式には「勝てば官軍負ければ賊軍」といいますが、これは、戊辰戦争が由来で生まれたといわれています。

その後

この戊辰戦争中に、五箇条の御誓文と五榜の掲示が掲げられました。
そして、江戸を東京と改称し、元号を明治としました。翌年(1869年)には、東京に遷都しています。

1869年、明治2年の版籍奉還では、全国の藩が所有していた土地(藩)と人民(籍)を、朝廷に返還するという政治改革が勅許(天皇からの命令に意)されました。

1871年、明治4年の廃藩置県では、明治政府によって藩が廃止され、地方統治は、政府が管理する府と県に変更されました。

1873年、明治6年の地租改正では、豊作や不作といった安定しない、米での納税をやめさせて、地券を発行して、土地の所有者から納税させるようにしました。

1873年、明治6年の明治6年の政変では、明治政府内で征韓論をめぐる対立が起こり、征韓論が否決されると、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、いっせいに辞職しました。

1874年、明治7年の民撰議院設立建白書では、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣らが、特定の藩を出身とする、一部の政治家に独占されていた当時の政治を批判し、国会を開いて、民意を政治に反映させることを提言しました。
これは、その後の自由民権運動の盛り上がりを導き、国会開設の機運を高めることになりました。

1876年、明治9年の廃刀令では、士族(武士)の特権であった、刀を持つこと(帯刀)が禁止されました。
明治政府は、戊辰戦争で活躍した士族や華族にたいして、秩禄といってお金やお米を支給していましたが、これが財政を圧迫しているために、同年、秩禄奉還の法で廃止します。
これを秩禄処分というのですが、これによって、士族は収入がなくなりました。
こうなると、士族が不満を爆発させて、反乱を起こすと考えられたので、武器を取り上げて反乱を未然に防ぎたい思惑もありました。

1877年、明治10年の西南戦争とは、政府職を辞して、鹿児島へと戻っていた西郷隆盛が、不満の溜まった士族を集めて、ガス抜きの目的もあり、私学校(士族専用の陸軍養成学校)を創設していました。
そこに、日本警察の父といわれる川路利良が、スパイを派遣し、寝返り工作や、軍事物資の押収などの、裏工作を指示しましたが、その行為は、私学校の士族にばれてしまい、スパイは捕まり尋問を受けます。
そこで、川路利良の命令で、西郷隆盛の暗殺指令がでてたことが発覚し、当初は、明治政府との武力衝突に乗り気ではなかった西郷隆盛も、開戦やむなしとの判断をくだしました。
そして、西郷軍は、各地で善戦はしましたが、次々に兵を増員してくる政府側に押し込まれていき、西郷隆盛は自決し、政府軍が勝利しました。
この戦争は、日本最後の内戦といわれ、この戦争を境に、士族たちは武力ではなく、言論で政府と戦う自由民権運動に参加するようになりました。
また、この戦争は、徴兵制で集めた農民中心の兵士たちが、戦いのプロとされていた士族、その中でも最強といわれていた、薩摩士族や西郷隆盛に勝利したことは、大きな衝撃を与えました。

今回の明治維新についての記事はここで終わりとします。
だいぶ長かったと思いますが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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