「長いナイフの夜」とは、ナチ党の幹部だったヘルマン・ゲーリングとハインリヒ・ヒムラーが結託しておこなった粛清事件です。
党内の権力闘争から、でっち上げた証拠で、突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめ、突撃隊幹部やナチ党に反抗的な者、さらには私怨などで、少なく見積もっても計百人以上を殺害しました。
ヒトラーは、(唯一お前と呼び合う間柄だった)レームをかばいましたが、ヒムラー指揮下のラインハルト・ハイドリヒを中心に捏造してくる証拠をもとに説得されました。
1934年「長いナイフの夜」事件
主な人物紹介
- 「アドルフ・ヒトラー」ドイツ首相、ナチ党の党首
- 「エルンスト・レーム」突撃隊幕僚長、無任所大臣
ヒトラーとは、ルーデンドルフとの和解をめぐって、1925年に袂を分ける。その後、ボリビアで軍事顧問をしていたが、ヒムラーの進言によって、ヒトラーを説得し、1931年に突撃隊のトップに就任する。 - 「ヘルマン・ゲーリング」ドイツ航空大臣、プロイセン州首相、元エースパイロット
ゲーリングは、国防軍総司令官の地位をめぐって、レームをライバル視し、対立をしていた。ゲシュタポ(秘密警察)の指揮権をヒムラーに譲る。 - 「ハインリヒ・ヒムラー」親衛隊全国指導者、ゲシュタポ長官代理
レームの元部下であり、ハイドリヒの上司。親衛隊の地位向上をめざしている。 - 「ラインハルト・ハイドリヒ」ゲシュタポ局長、親衛隊情報部長官
海軍軍人時代に、上官の娘との交際で問題を起こし、軍法会議の末に不名誉除隊されていた。しかし、ヒムラーに認められ親衛隊に入隊する。
主な組織
- 「突撃隊(SA)」
ナチスの前身「ドイツ労働者党」時代に設立された組織。対立する党(主に共産党)の警備隊とは、街頭闘争を常に先頭に立って戦った。
ナチスの党勢拡大とともに突撃隊も巨大化していき、ナチ党が政権を掌握した1933年には、突撃隊は総員400万人、うち武装兵士が50万人の規模にまで膨れ上がっていた。
これは国軍の陸軍将兵10万人の5倍にもおよぶものであり、国内最大規模の武装集団。
失業に喘ぐ下層民が多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員も多く、国防軍などの保守勢力との連携を深めるヒトラーにとって厄介な存在となっていく。 - 「親衛隊(SS)」
入隊の際に一定の規律を求め、アーリア人らしき振舞いを求める組織。競合していた突撃隊を敵視している。1929年のヒムラー全国指導者就任時は、280人の弱小組織でしたが、1932年の終わり頃には5万人以上に成長。 - 「親衛隊情報部(SD)」
親衛隊の内部に置かれ党外・党内の諜報活動をおこなう組織。MI5をモデルにして1931年に創設され、ヒンデンブルク大統領から敵視されていた。 - 「ゲシュタポ」
ゲーリングが発足させたプロイセン州の秘密警察。1934年から親衛隊のヒムラーとハイドリヒが実権を握る。
背景
ナチ党が、ヒトラーをトップに、民衆からの支持を集めていき、政権奪取へと向かっていくなかで、幹部連中の権力闘争を激化していきました。
そんな権力闘争からはちょっと離れていたところに位置し、ナチ党の飛躍とともに、横暴で粗野な隊員が多かった突撃隊は、好き勝手に喧嘩したり、暴れたりを繰り返し、次第に他の組織の幹部連中から、鬱陶しいがられる存在へとなっていきました。
そして、突撃隊のトップだったエルンスト・レームが標的とされます。レームは同性愛者の粗暴な元軍人でしたが、それほど野心はなく、ナチ党内の権力派閥争いとは無縁でした。
しかし、突撃隊の規模が拡大していくなかで、①ゲーリングからはライバル視され、②ヒムラーからは敵視され、③ゲッペルス宣伝相からは嫌われていきます。
ゲーリングは、国防軍総司令官の座をめぐって、潜在的ライバルとなるであろうレームに対し、航空省調査局という部署を設置し、盗聴をおこなっていました。そこでレームが、日常的に突撃隊幹部とおこなっている会話で、ゲーリングに対しての誹謗中傷が多くありました。
それとゲーリングは、政界に身を置いていたので、未だに革命的思想を維持し続ける突撃隊が嫌いでした。
ヒムラーが、疎遠になっていたヒトラーと、レームの和解を取りもったのは、党内での地位を巨大化させていくゲーリングに対し、歯止めとするためでしたが、復権したレームは、たしかにゲーリングに対して双璧をなしましたが、ヒムラーの指示には従わず好き勝手に振舞っていました。
ヒトラー首相誕生後、ミュンヘン警察長官に任命されたヒムラーは、全国の警察権力を手に入れようと、ヒトラーに直訴して認められ、ゲシュタポ以外の警察権限を手に入れました。
そしてヒムラーの権力拡大を脅威に感じたゲーリングは、プロイセン州秘密警察のゲシュタポ長官代理に、ヒムラーを任命し、自分の管理下にヒムラーを置こうとしました。
ここでゲーリングとヒムラーは、ゲシュタポと親衛隊を連携させて、レームの突撃隊を解体させる相談を開始します。
レームを失脚させることは、2人にとって利益があることだと認識したためです。
次に、全国の警察権の実権を与えられたヒムラーは、親衛隊情報部長官のハイドリヒをゲシュタポ局長に任命し、諜報活動により得た情報(多くは捏造)を使い、突撃隊粛清のプランを練り始めました。
ちなみに、ゲッペルスがレームを嫌いになったのは、ゲッペルスは、政敵に対し暴力的で野蛮の度が過ぎる突撃隊を好んでいましたが、レームは、突撃隊を(ゆるいが)規律のある軍隊組織に変えていこうとしていたのと、レームがヒトラーから好かれていることへの嫉妬です。
しかし、ゲッペルスも宣伝相に任命されてからは、その気持ちを薄れていきました。
粛清の決断
ヒトラーは突撃隊を問題視はしていたのですが、レームを含めた粛清には乗り気ではありませんでした。
1934年4月下旬から5月の末にかけて、ゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒの3人は、突撃隊による「武装蜂起計画」の捏造をおこないました。そしてこの捏造計画は、6月に入ってからバラまかれて、噂となって広がっていきました。
これに対してヒトラーは、6月4日にレームを呼び出して、革命思想を捨てるように求めたが、レームは事態を重く受け止めてなかったので「不穏な情勢の鎮静化に努める」と聞き流してしまいました。
この忠誠心に欠けるレームの態度を、ゲーリングたちは利用し、ヒトラーにレームと突撃隊粛清の説得をおこないました。
最初は、同性愛者を口実にしましたが、そんなことは百も承知の、ヒトラーには響きません。
次は、レームは突撃隊幹部連中と乱交してると告げ、これは青少年の堕落につながると説得します。
これには、ヒトラーもさすがに無視するわけにもいかず、仕方なくゲーリングたちの案を採用しました。
そして突撃隊の力を分散させるために、1ヶ月の休暇を与えるという名目で、突撃隊にたいして軍事演習をとりやめさせ、解散を命じます。
レームは、自分を脅威だとは認識してなかったので、純粋に「休暇」だと信じていました。
そして、バート・ヴィースゼーの保養クラブ「ハンゼルバウアー」に神経痛の療養もかねて旅行に出かけました。一応は、レームの耳にも粛清の噂は入っていましたが、レーム自身には「自分は突撃隊を率いて、ヒトラーを守っている」という自負がありましたので、気にも留めなかったそうです。
6月21日にヒトラーは、ヒンデンブルク大統領から、ヒトラーが突撃隊の問題を処理できないのであれば、大統領権限で戒厳令をおこない、事態の収拾にあたると通告されました。
ヒトラーは、首相権力の形骸化を恐れて、このときに粛清の最終的な決意を固めます。
6月23日、レームが「ヒトラー政権打倒のために、フランスから多額の援助をうけている」証拠が見つかります(もちろん捏造です)。
こうして捏造証拠をもとに、悪名高き「長いナイフの夜」がはじまります。
「長いナイフの夜」決行
6月30日に入ったばかりの深夜、ヒトラーはヨーゼフ・ゲッベルスやヴィクトール・ルッツェ突撃隊大将(レームの後任の突撃隊幕僚長にすることが内定していた人物)を引き連れて、総統機でベルリンを出発し、バイエルン州ミュンヘン郊外のオーバーヴィーゼンフェルトへ向けて飛びました。
着陸後、ヒトラーはすぐにバイエルン内務省へ移動し、ここでヒトラー自身が、ヴィルヘルム・シュミット突撃隊中将と、アウグスト・シュナイトフーバー突撃隊大将を逮捕しました。さらにヒトラーは、午前5時半ごろにレームたちが滞在しているバート・ヴィースゼーの保養クラブ「ハンゼルバウアー」へ向かいました。
ヒトラーは、銃を携え先頭に立ち、親衛隊員たちを率いて、クラブハウスへ突入しました。
まずは、レームの部屋に押し入ったのです。ヒトラーは、ビックリして飛び起きたレームに拳銃を突きつけて「裏切り者」と言い放ちました。レームには、まったく身に覚えがないため、即座に否定しましたが、ヒトラーは「逮捕するから着替えろ」と命じて、あとは部下に任せて部屋から出ていきました。
つづいてヒトラーは、エドムント・ハイネス突撃隊大将の部屋に押し入りました。この時、ハイネスは、同性愛中だったらしいです。ハイネスをルッツェに任せてヒトラーはまた次の部屋へ、そしてまた次の部屋へと押し入っていきました。
ハイネスはルッツェに「ルッツェ。おれは何もしていない!助けてくれ!!」と叫びましたが、ルッツェは「おれは何もしてやれない。おれには何もできない」と返したそうです。
逮捕に抵抗する突撃隊幹部は一人もいませんでした。
そして逮捕された突撃隊員たちは、シュターデルハイム刑務所へと移送されました。
こうして「陰謀の本拠地」は(どっちが陰謀かわかりませんが)あっさりと片付いたのです。
この後も、突撃隊の幹部たちを次々に逮捕していき、処刑していきます。
しかしヒトラーは、レームの処刑命令は出せずにいました。
バイエルン州では、突撃隊以外の人々も殺されています。
ミュンヘン一揆の「裏切り者」である元バイエルン総督グスタフ・フォン・カールもその一人です。カールは親衛隊員により、斧で斬殺されて、その遺体はダッハウ強制収容所の近くの沼地に捨てられました。
前首相のシュライヒャー中将は、ナチ党政権の樹立を妨害したという理由で、妻と一緒にゲシュタポによって自宅で殺害されました(シュライヒャーの殺害はゲシュタポの独断であり、これにはゲーリングははじめ反対していたという)。
カトリックで反ナチ派の運輸省官僚、エーリヒ・クラウゼナーは、運輸省内の執務室でハイドリヒの放った、親衛隊情報部隊員に頭を打ちぬかれて殺害されました。
グレゴール・シュトラッサー(ナチ党左派)もゲシュタポの拘禁所へ連れて行かれ、そこで親衛隊員に背後から撃たれて殺害されました。
パリの亡命者に出回っている反ナチ書籍「ドイツ国防軍将軍の日記」の著者と疑われていたフェルディナント・フォン・ブレドウ少将も何者かに頭を撃ち抜かれて殺されています。
フランツ・フォン・パーペン(ヒトラー内閣副首相)も危なかったのですが、ゲーリングの庇護で命だけは助かりました。しかしパーペンの秘書は殺されています。
こうして各地で、大規模な粛清が決行されていきますが、ヒトラーは、未だに唯一「お前」と呼び合う仲であるレームの処刑を指示できずにいました。
しかし、ゲーリングとヒムラーに必死に説得され、ついに決断します。ただし、自決の機会を与えたうえでの処刑となりました。
レームは、自決用に一発だけ銃弾が込められた銃を渡されますが「俺を殺すというなら、アドルフ自身ががやるべきだ」と言い放ち、自決を拒否します。
そのため、ダッハウ収容所のアイケ所長とリッペルト副所長によって銃殺による処刑がされました。
このようにして、ナチ党内外の人々が裁判も受けれずに殺害されたばかりか、ナチ党の権力争いと直接関係のない人物も、粛清執行者の私怨などにより犠牲となりました。
公式発表によると77人が死亡したことになっていますが、116名の死亡者の氏名が明らかになっています。そして、亡命ドイツ人の発表では千人以上という数も主張されています。
粛清後の動き
ヒンデンブルク大統領と、ブロンベルク国防相は、ヒトラーの突撃隊へ対応に、感謝の意を表明しました。
7月2日には、ヒンデンブルク大統領の署名付き祝電がヒトラーに送られています。
突撃隊を排除したことにより、ドイツ国軍はナチ党への完全な協力を約束しました。
ドイツ市民のあいだでは、突撃隊は暴力沙汰や同性愛などで評判が悪かったので、比較的この事件は、好意的に受け止められました(もちろんメディアはゲッペルスが握っています)。
親衛隊は、突撃隊から完全に独立しました。しかし、突撃隊は弱体化しましたが、完全に無くなったわけではないので、対立を繰り返し消えることのない因縁が残りました。
世界的には、大批判されましたが、ソ連のスターリンだけは、自国の側近に「諸君はドイツからのニュースを聞いたか?何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男はすごい奴だ!奴は政敵をどう扱えばいいかを我々に見せてくれた!」と絶賛したそうです(ちなみに、イタリアのムッソリーニですら、容認できないと批判しています)。
とにかく「長いナイフの夜」によって、国軍や市民からの支持をえて、ヒトラーの権力はより強化しました。そして、ナチ党内でも、粛清を恐れ、ヒトラーに逆らう者はいなくなっていきました。
ということで、今回の「長いナイフの夜」についての記事はおしまいです。長かったと思いますが、いかがでしたか?