Credit:ハ Rocky Mountain Laboratories, NIAID, NIH Scanning electron micrograph depicting a mass of Yersinia pestis bacteria (the cause of bubonic plague) in the foregut of the flea vector

「ペスト」とは、ペスト菌への感染によって起こる感染症です。別名「黒死病」とも呼ばれますが、これは感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることに由来しています。
致死率は非常に高く、抗菌薬(抗生物質も含む)による治療がされなかった場合、60%から90%にいたります。

ペストの流行

第一次流行(6世紀から8世紀)

この第一次流行は、6世紀の「ユスティニアヌス(東ローマ帝国)のペスト」に始り、8世紀末までつづいたものをさしますが、これ以前にもペストの流行はありました。

第一次流行以前

古代ギリシャでの流行

ペロポネソス戦争(紀元前429年に、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア全域を巻き込んだ大戦争)のさなか、篭城戦術をもちいてスパルタ軍と対峙していた、ギリシャ最大のポリス・アテナイを感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出したのですが、現在では、症状などの分析により、ペストではなく「天然痘」もしくは「発疹チフス」だったのではないかと言われています。

紀元前3世紀(BC300~BC201)には、マケドニアのアレクサンドロス大王が、地中海地域における商業活動での覇権を競い、ティルス(レバノン南西部)へ攻め入ったときに、長期にわたって抵抗に遭い、陥落しそうもなかったのですが、たまたまペストで死んだ、マケドニア兵の着衣を敵の飲水用泉に投げ入れたところ、数日のうちに敵兵数千名が倒れ勝利したのです。
これは、生物兵器としてペストが使用されたということになります。

ローマ帝国での流行

165年から180年に発生した流行で、感染した人の25%から33%が死亡し、350万から700万人ほどの人々が死んだとされています。
これは「アントニヌス帝のペスト」と呼ばれています。

「ユスティニアヌス(東ローマ帝国)のペスト」

記録されているヨーロッパの歴史のうち、ペストと同じ症状と推定される感染症の最初の流行は、541年から542年、あるいは542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年~565年)統治下の東ローマ帝国で発生しました。

コンスタンチノープルで流行し、東ローマ帝国の全人口の40%が死亡しました。
「コンスタンチノープル市内では、毎日1万人が死んだ。」ともいわれいて、流行の最盛期には、毎日5千人から1万人もの死亡者が出て、製粉所やパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥りました。

当時の東ローマ帝国は、かつての領地の再征服を目指して、東ゴート王国と「ゴート戦争」を戦っていましたが、ペストの流行によって大混乱に陥りました。
そして、ユスティニアヌス1世も感染したのですが、快復したとされています。

第二次流行(14世紀から17世紀末)

14世紀に発生した「ペスト(黒死病)」によるパンデミック

14世紀には、世界規模でペストが大流行し、約8千万人から1億人ほどが、死亡したと推計されています。
当時の世界人口は、推計が難しいので、学者によってのバラつきはありますが、約4億人とされています。

アジアからヨーロッパへ

472年以降、ペストは西ヨーロッパから姿を消していました。
しかし、当時ユーラシア一帯を支配していた、モンゴル帝国の中国大陸雲南省で、ペストの大流行が発生します。それが中央アジアや中東、北アフリカにも拡大していきました。

ヨーロッパへは、1347年10月に、イタリアのシチリア島のメッシーナに上陸しました。
ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされています。流行の中心地となったイタリア北部では、住民がほとんど全滅しました。
謎の疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では「ユダヤ人が雑居しているからだ」として1万人以上のユダヤ人を虐殺しました。

1348年には、アルプス以北のヨーロッパにも伝わってしまい、14世紀末まで、3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るいつづけました。
1349年イギリスでは、労働者の不足に対処するため、エドワード3世が、ペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めたほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から、人手のいらないヒツジの放牧への転換が進むことになりました。
イングランドの総人口400万人の3分の1が死んだとされ、当時のイングランドで通用していた、フランス語や、聖職者が使用していたラテン語の話者の人口が激減し、英語が生き延びました。

この疫病が、ヨーロッパに到達してから数か月たった頃、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡しました。
また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったことから「ユダヤ教徒が、井戸へ毒を投げ込んだ」等のデマが広まり、迫害や虐殺がおこなわれました。
この迫害では、キリスト教徒がユダヤ人を捕まえて処刑し、そのユダヤ人の財産をキリスト教徒たちで分配しました。

ユダヤ教徒に被害が少なかったのは、「戒律にそった生活のため、キリスト教徒より衛生的であった」とか「キリスト教徒と隔離されて生活していたため」との考え方があります。
ポーランドでは、アルコール(蒸留酒)で食器を消毒したり、ワキや足などを消臭する習慣が、国民に広く定着していたので、ペストの発生が抑えられていたといわれています。

その後も、ペストは流行と終息を繰り返しました。

1630年3月、カーニバルのためにミラノでの検疫条件を緩和したため、ペストが再発しました。ピーク時の死亡者数は、1日当たり約3500人にのぼりました。

ピューリタン革命のあと、王政復古したイギリスのロンドンでは、1665年に流行してしまい、約7万人が死亡しました。
そしてこの流行は、1666年にロンドン大火(大規模な火災)が発生し、全市が焦土と化したことで、ノミやネズミがいなくなり終息を迎えました。

第二次流行の影響のまとめ

元寇(モンゴル帝国と、その属国である高麗による対日侵攻)で日本を襲ったモンゴルが、3度目の遠征をできなかった要因ともいわれています。

1377年には、ヴェネツィアで海上検疫が始まりました。
当初は30日間でしたが、後に40日に変更されます。これにより、イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から「quarantine(検疫)」という言葉ができました。

フランス王国内では、大規模なユダヤ人への迫害が発生し、ユダヤ人共同体は、ほぼ消滅しました。
キリスト教に改宗しなかったユダヤ人家族は、集団自殺の契約、また殉教者としての固い決意があったので、火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれています。
人々は「疫病はユダヤ人がキリスト教世界に、毒を行き渡らせるために流行させた」と信じられていたので、ユダヤ人虐殺事件が、ヨーロッパ各地で発生しました。

当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が、衰退へと向かう一因となりました。

文学者ジョヴァンニ・ボッカッチョにより、人文主義の傑作とされている「デカメロン(十日物語)」が生み出されました。
デカメロンは、ペストの恐怖からの心理的逃避を背景に、ペストを逃れて郊外に住んだ、フィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で著されています。

ロンドンでは、人が多く集まる大学が閉鎖され、学生はペストを避けるために疎開させられました。
その影響で、当時ケンブリッジ大学で、学位を得たばかりのアイザック・ニュートンは、故郷に疎開することになります。
それまでニュートンは、大学で雑用的な仕事をして生活費を稼いでいたのですが、疎開により雑務から完全に解放されて、思索にあてる時間をえたことで、微積分法の証明や、プリズムでの分光の実験などをおこなうことができました。

1681年には、ロンドン大火の影響で、世界初の火災保険がロンドンで誕生しました。

第三次流行(19世紀末から現在)

19世紀末、中国を起源とするペストが世界中に広がりました。
これは、雲南省で1855年に大流行した腺ペストを起源とするもので、1894年(明治27年)の香港での大流行をきっかけとして、台湾、日本、ハワイ諸島をはじめ、さらにアメリカ合衆国、東南アジアから南アジアの各地にも広がっていきました。

ロベルト・コッホに師事した北里柴三郎は、日本政府によって香港に調査派遣されました。
そして、腺ペストの病原菌を共同発見しました。
同じ年のほぼ同時に、パスツール研究所の細菌学者で、スイスとフランスで活躍した医師アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見し、これを発表しました。
こうして、ようやくペストの原因が、はじめて確定されたのです。
この後、北里の研究によって、腺ペストを治す方法は抗血清によって確立されたましたが、出血熱に関しては、いまだ有効な治療法が確立されていません。

第三次流行で、最大の被害を受けた国はインドでした。
第二次世界大戦までに、死亡者は千二百万人以上に達したといわれています。
そしてインドでは、1994年にもペストが発生し、パニックが起こっています。

日本での流行

日本では、明治になって国外から侵入したのが、初のペスト流行であるとされています。

日本においてペストは、明治以前の発生は確認されていません。
最初の報告は、1896年(明治29年)に、横浜に入港した中国人船客で、同地の中国人病院で死亡したというものでした。
1899年(明治33年)11月が最初の流行で、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が、広島で発病し死亡、その後の2週間で、神戸市内、大阪市内、浜松で発病、死者が発生しました。
こうして、45人のペスト患者が発生し、40人が死亡しました。
翌年より東京市は予防のため、ネズミを1匹あたり5銭で買い上げました。
この時のネズミの霊を供養するための鼠塚が、渋谷区の祥雲寺境内にあります。

最大の流行は、1905年から1910年の大阪府で、958名の感染者が発生し、社会的に大きなインパクトを与えました。
この際、紡績工場での患者発生がつづいたことから、ペスト流行地のインドから輸入された、綿花に混入したネズミが感染源というのが通説になりました。

日本人のペストによる被害者数は、最初の日本人被害者がでた1899年から最後の感染者が確認された1926年までで、感染者数が2905人、死亡者数が2420人となっています。

1990年代の発生

WHOの報告によりますと、1991年以降は増加していて、1996年の患者数は3017人で、死者数は205人。1997年には患者数が5419人で、死者数は274人でした。
しかし、WHOに報告された被害者数は、過小にされていて、実態はさらに深刻だったといわれています。

主な感染地域は「アフリカの山岳地帯および密林地帯」「東南アジアのヒマラヤ山脈周辺ならびに熱帯森林地帯」「中国、モンゴルの亜熱帯草原地域」「アラビアからカスピ海北西部」「北米南西部ロッキー山脈周辺」「南米北西部のアンデス山脈周辺ならびに密林地帯」などです。

2000年代の発生

WHOによれば 、2004年から2015年の感染者は、56734名で、死亡者数は4651名(死亡率 8.2%)でした。
このほとんどは「マダガスカル」「コンゴ民主共和国」「タンザニア」などのアフリカ諸国でした。
マダガスカルでは、2017年にも流行が発生し、感染者2348人、死亡者202人が確認されています。

まとめ

このように、紀元前から私たち人間に感染し、中世のヨーロッパを中心に、甚大なる被害をもたらせたペストは、未だに終息にはいたっていません。

日本では、ペストの被害は約百年間ありませんが、今までの流行の傾向ですと、これはあくまでも、たった百年間感染者がでていないだけです。
ペストの流行の歴史を振り返ってみると、千年とかの間に数回のパンデミックを起こしています。
たまたま、私たちがそのはざまに生きているだけではないでしょうか?

もちろん、現在の日本にペスト患者が出たとしても、医療技術や衛生面での進歩から、昔のようなパンデミックになることは考えにくいかもしれませんが、2000年代以降でも、死亡率が8.2%もあり、ワクチンもありませんので、パニックが起こるのは必然でしょう。

新型肺炎でもそうですが、感染症は外からやってくる場合がほとんどです。
日本は島国ですので、政府には水際対策を、責任をもって果たしていただきたいですね。

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