アフリカの黒人を奴隷として取引し、扱うようになりだしたのは、大航海時代にまでさかのぼります。

当時、ヨーロッパの列強国は、アメリカ大陸やアフリカ大陸に進出し、自国の領土として征服をしていき、1452年には、ローマ教皇ニコラウス5世が、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化したのです。

そしてアメリカ大陸では、開拓が盛んにおこなわれていき、18世紀半ばにはイギリスで産業革命が起こったことで、奴隷貿易と呼ばれる大西洋三角貿易に拍車をかけることになりました。

当初は、先住民やヨーロッパから連れてきた白人の貧困層を、奴隷として活用していこうとしたのですが、先住民たちは、とんでもない数の虐殺や、疫病の蔓延によって、人口が激減させられていましたし、征服者にたいして反抗的な者が多かったため、奴隷として扱いにくいという事情がありました。

アメリカでの年季奉公

ヨーロッパで募集した白人の貧困層を、植民地へ連れてくる年季奉公は、契約期間中(主に7年)は奴隷同然の扱いをうけることが知られていたことから不人気であり、特に南米では、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していました。
それ以外でも年季奉公は多くの問題を生み出します。

①大西洋を渡る船旅は厳しいものであり、食糧は2週間分程度を渡されただけで、それ以上支給されることは無く、飢えや病気への危険性がありました。

②奉公するものが雇用主から金を借りてそれが膨らみ、契約年限が延びてしまい、一生奉公が続く可能性がありました。

③年季奉公人は、男女を問わず暴力にさらされ、場合によっては死に至ることもありましたし、特に女性の奉公人は、その雇用主によって強姦されたり性的虐待を受けることがあり、子供が生まれると(労働期間の空白ができることから)奉公期間が2年間延長されました。

この年季奉公は、ヨーロッパからの奉公人と同様に、アフリカ人も一定期間の奉公が終われば解放され、前の主人から土地や物資の利用が認められたため、それを良く思っていない大部分の白人によって、年季奉公から人種を区別した奴隷制への移行が進められていきます。
そして当時の理論では、熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が、労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になっていったのです。

奴隷取引

アフリカ大陸から輸送された奴隷たちの中には、侵略や内戦で捕虜になった者や、村を襲撃されてつかまった者や、誘拐されたりした者がいました。
奴隷たちは、手かせで互いにつながれた状態で、内陸から何週間もかけて徒歩で海岸までたどり着くと、ヨーロッパ人が購入するまでは、砦の中に押し込められた状態にさせられていました。

このような状況下で、アメリカ大陸に渡ったアフリカ人は、1200万人から1300万人にのぼると推計されています。

こうした奴隷の供給元は、主に現地の権力者(つまりは黒人)や、アラブ人商人であったとされています。
これは当時、アフリカの黒人諸王国は、相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りでえた他部族の黒人を、白人などに売却していたためです。

そしてこの取引によって、内戦が頻発しているアフリカの諸王国は、ヨーロッパから繊維製品・ラム酒・武器などを手に入れ、ヨーロッパの船は、それらの品物と交換でえた奴隷を船に積み込み、南米・北米・西インド諸島へと向かい、奴隷と交換で、砂糖や綿花、タバコやコーヒーを積み込みヨーロッパへと運ぶ、大西洋三角貿易が形成されました。

しかし、こうしてシステムが確立され、効率よく貿易がおこなわれていった影響と、産業革命による生産性の向上によって、商品の価格は下がり、奴隷の需要は高まっていくことになります。

ちなみに奴隷一人の価格については、1680年代は仕入れが5ポンドで、販売が20ポンドだったのが、1780年には仕入れが20ポンド弱となり、販売は45ポンドにまで上がっています。
1772年に取引された女奴隷の物々交換では、金8オンス(240グラム)でした。

そして、人道的な観点からも批判が高まっていき、1807年にはイギリスが世界に先駆けて、アフリカ人奴隷貿易の禁止を宣言し、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置し、奴隷貿易の取り締まりを開始しました。

こうした、イギリスの奴隷貿易による奴隷制撤廃の動きは、ヨーロッパ各国に広がっていき、アメリカでも1808年に奴隷の輸入が禁止されましたが、綿花などの大規模農園に奴隷を必要とした、アメリカ南部の農園主たちは密輸による奴隷貿易を続けていきます。

奴隷制度と南北戦争

アメリカでは奴隷貿易が禁止された後も、奴隷は財産であり、所有を禁じられたわけではありません。
そして、この輸入禁止以前からも盛んにあったのですが、女奴隷の子供は、父親が誰であろうと奴隷であったため、女奴隷が、所有者や所有者の家族の一員、あるいは友人によって強姦されることは日常的なことでした。

当時は「One drop rule」というものがあり、黒人奴隷の血が一滴でも入っていれば、その人間には白人と同等の権利は認められなかったわけです。

もちろんこのような状況ですので、逃亡を試みる奴隷もあとを絶ちませんでしたが、白人たちは奴隷警ら隊を組織して監視し、警ら隊には逃亡した奴隷に略式の罰を与えることや、傷を負わせたり殺すことさえも許されていました。

そして、当時のアメリカでは、黒人奴隷の労働により支えられ、特に綿花をヨーロッパに輸出する、農業中心のプランテーション経済が盛んな南部と、急速な工業化が進み、新たな流動的労働力を必要としていたため、奴隷制とは相容れなかった北部との対立が起こります。

その結果、奴隷制に対する考え方と、貿易に対する方向性の両方で、意見を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという州の意)と、南部の奴隷州の対立が一層激化していくことになり、そこに「ルイジアナ買収」や、メキシコから独立したテキサスやカリフォルニアが新領土になったことで、力の均衡が崩れてしまい「南北戦争」へと発展します。

そして、この南北戦争中だった1862年9月に、当時のアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンが、連邦軍と戦っていた南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じた「奴隷解放宣言」がおこなわれます。
この宣言によって、すぐ解放された奴隷の数は少なかったのですが、終戦後には、南部連合支配地域が連邦軍の支配下に戻され、アメリカ合衆国憲法第13修正が承認されたため、奴隷たちの解放は公式に確立されました。

奴隷制度廃止から公民権運動

1870年3月に、アメリカ合衆国憲法に憲法修正第15条が加えられたことによって、黒人にも選挙権を認められ、さらに黒人の公民権侵害に対する処罰法ともいうべき強制法が制定されました。
そしていくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒人議員によって占められることとなり、また、州政府の各種機関にも多数の黒人が進出しました。
さらには、国の政治にも直接関与し、1869年から1876年の時期に、14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員がワシントンの国会へと送られたのです。

しかし、こうした黒人たちが勢力を強めていくことへの危機感から、合衆国に復帰した南部諸州では黒人差別が始まり、この憲法で保障された黒人投票権は、19世紀末からは、巧妙な州法の制定により、事実上、奪われていき、黒人への差別を禁じていた「公民権法」は無効化することになります。

1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが公営バスの「黒人専用席」に座っていたにもかかわらず、席のない白人から席を譲るように求められたのですが、黒人女性は席を譲りませんでした。
すると白人は、運転手に譲るように言ってくれと頼み、白人の運転手のジェイムズ・ブレイクが白人客に席を譲るよう命じましたが、黒人女性のパークスがこれを拒否したため、「人種分離法」違反で警察官によって逮捕、投獄され、後にモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で、罰金刑を宣告される事件が発生します。

この事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師らがモンゴメリー市民に対して、1年にわたるバスボイコットを呼びかける運動を開始したのが「公民権運動」が広がっていくきっかけの一つとなりました。

この公民権運動への対応は、暗殺されたケネディ大統領の後任となった、リンドン・ジョンソン大統領に引き継がれ、ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり議会も全面的に公民権法の制定に向け動き、1964年7月2日に公民権法が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになったのです。

さいごに

こうして法制度のもとでは、人種差別は撤廃されていますが、こうした問題はアメリカだけに限ったものではありませんし、黒人だけに限ったものでもありません。

現在でもアメリカでは黒人だけに限らず、アジア系にたいしても一部では差別は存在していますし、白人とそれ以外の人種では、有罪率や刑期などにも差があります。

中東では、クルド人問題が起こっていますし、新型コロナの発生初期には、世界各国でアジア人への差別的行動が起こりました。

そしてアメリカでは、白人警官が不当に黒人男性を死にいたらしめたとして発生したデモが、トランプ大統領の強固な対応によって大規模化してしまい、このデモは欧州を中心に広がりをみせています。

黒人と白人ということで問題をみてきましたが、人というのは肌の色以外の見た目でも、賞賛したり、卑下したりするものですし、それ以外の部分でも差別をしたり、イジメなどをおこなうのですから、こんな問題がなくなることなんてあるのかと思ってしまいます。

学校の先生がイジメをやめなさいと言ってもなくならないように、政府が強権を伴う抑えつけにでたり、憲法を改正しても人種差別が根本的に解決されることは難しいのではないでしょうか。
やはりあくまでも大切なのは、地味な啓蒙活動と罰則規定だと思いますけどね。

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