南シナ海問題が発生する前

南シナ海には、スプラトリー諸島(南沙諸島)、パラセル諸島(西沙諸島)、マックレスフィールド岩礁群(中沙諸島)、プラタス諸島(東沙諸島)の4諸島があり、現在は、中国、台湾、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイの6つの国と地域によって領有権が争われています。

南シナ海の多くは、深海から屹立するサンゴ環礁のため、19世紀以前は船舶が座礁する危険海域として有名でした。
18世紀から19世紀にかけて、最初にこの海域の島礁の測量や探検をおこなったのはイギリスで、その頃は、清、ベトナム、フィリピンや、その他の周辺諸国の漁民たちが、この海域で活動をしていました。

そして日本も進出していき、1939年には南シナ海の全諸島を占有し、民間企業が燐鉱石の開発や漁業関連で進出したほか、旧日本海軍が陸戦隊を配備し、南進のための補給基地の一つとして利用ていましたが、太平洋戦争の敗戦によって旧日本軍は撤退しました。

日本の敗戦後は、周辺国やフランスによる領有権の主張が始まり、争われていきましたが、1951年の「サンフランシスコ講和条約」の締結直前に、中国の首相兼外相だった周恩来が南シナ海の4諸島全島の領有を主張し、南シナ海の地図上に「九段線」と呼ばれるU字型の線を引きます。

国連の調査とEEZ

1968年から1969年にかけて国連が実施した、東シナ海と南シナ海での海底資源調査によって、南シナ海においてエネルギー資源の存在可能性の期待が高まったため、この領有権争いは過熱していくことになります。

1967年に提唱され、1982年に採択された「国連海洋法条約」によって「排他的経済水域(EEZ)」というルールが設定されたことで、世界各国がその設定に踏み切ることになっていきました。
このEEZのルールでは、たとえ無人島でも、一つの島を領有していれば、その周囲200海里の資源の保有が認められることになりますので、南シナ海の沿岸諸国のあいだでは、島礁の領有主張や実効支配がおこなわれていきます。

フィリピンは南沙諸島の領有権を主張し、1971年の10月までに同諸島の6島礁に軍を送って占領します。
そして南ベトナムも南沙諸島の領有を主張し、1973年の8月までに同諸島の(フィリピンが占領していない)6島礁を占領し、1974年1月には、西沙諸島を自国のダナン市に編入し軍艦を送るなどの行動をとります。

この南ベトナムのとった行動にたいして、中国はすぐに軍艦を派遣し、両国海軍による海戦が行われ、勝利した中国海軍は西沙諸島全域を武力によって制圧・占領することに成功します。

こうした中で、1979年12月にはマレーシアが南沙諸島の一部の領有権を主張し、1982年にはブルネイ(沿岸部以外をマレーシアに囲まれている国家)もEEZを引いて、南沙諸島の一部の領有権を主張します。

それからしばらくのあいだは、フィリピンに駐留していたアメリカ軍が目を光らせていたこともあり、静かになっていましたが、1988年3月に南沙諸島の海域で、中国海軍とベトナム海軍による海戦が勃発します。
この海戦で中国海軍は、フリゲート艦を用いてベトナム海軍の輸送船3隻を襲い、2隻を撃沈し、ベトナム兵64名を死亡させ、南沙諸島の一部を占拠することになり、ASEAN諸国に衝撃を与えることになりました。

ASEANと中国

東南アジア10か国から成る「東南アジア諸国連合」であるASEANは、東南アジアへの中国の安全保障上の影響力の伸長を懸念し、中国と話し合いの場をもつため、1991年にはASEAN外相会議(AMM)に中国外相を招待し、1994年以降はASEAN地域フォーラムにも中国の代表者を招待していきます。

こうしたASEAN諸国の懐柔策にたいして中国は、尖閣諸島と南シナ海全諸島の領有を宣言し、南沙諸島の一部の島に領土標識をたてました。
これにたいしてASEAN側は、すべての係争当事者に平和的解決と自制を求める「南シナ海宣言」を出して対抗しようとしましたが、1991年9月に在フィリピン米軍基地の存続条約がフィリピン上院で否決され、1992年までにフィリピンからアメリカ軍が撤退したため、中国にさらなる進出をさせる機会を与えることになってしまいました。

このフィリピンからのアメリカ軍の撤退は、フィリピン国内での反米感情の高まりと、在米軍基地が甚大な被害をうけた「ピナツボ火山の噴火」が大きな要因となっています。
当時のアメリカは、フィリピンの軍事的価値をそれほど高くみておらず、噴火の影響で火山灰により滑走路や設備が使用不能となり、復旧には莫大な費用が発生することなどから、基地協定は期限が延長されませんでした。

そしてアメリカ軍のいなくなった南シナ海で中国は、さらなる進出を進めていき、南沙諸島の一部の島では建築行為をおこない、建造物をたてていきました。
こうした行為にフィリピン政府は、中国との二国間交渉で建造物の撤去を訴えるとともに、南シナ海における中比間の行動規範を締結し、ASEANも中国との首脳会議の場で「南シナ海の係争当事者間の行動規範」の締結を訴えることになります。

この後、ASEAN諸国の外相たちは、1995年3月に直接名指しはしませんでしたが「南シナ海の最近の情勢に関する外相声明」を発表し、中国へのけん制をおこないましたが、効果は限定的なものになります。
そしてフィリピンは、1998年2月に「訪問米軍地位協定」を結び、アメリカ軍を呼び戻す努力をしますが、こちらは「時すでに遅し」ということになってしまいます。

ASEANと中国のあいだでおこなわれていた交渉は、2002年に「南シナ海の係争当事者間の行動宣言」として合意し、国連憲章と国連海洋法条約、そして東南アジア友好協力条約や平和五原則、国際法の原則にのっとって、係争当事者は領海紛争を武力や威嚇によらず、平和的に解決することが約束されます。
ここからしばらくは、中国もおとなしくなり、ASEANや領有権を主張している国を刺激するような行動は控えられていましたが、そうした状況は習近平の出現によって大きく変わることになります。

強硬姿勢の習近平と政治利用するドゥテルテ

これまで、中国にとって南シナ海は、海洋資源の重要度が高かったのですが、「海洋強国」という戦略を実行に移すための「軍事的重要拠点」となっていきました。
そして経済戦略面では「一帯一路構想」が有名ですが、胡錦涛前国家主席時に掲げられた「真珠の首飾り」戦略という、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマーなど、インド洋沿岸国の港湾建設などを積極支援する中国の海外戦略において、南シナ海を支配することの重要度が増していきました。

こうした中国の拡張戦略や周辺関係国の動向によって、現在の「南シナ海問題」は起こっているのです。

今回は「現在の南シナ海問題」に至った経緯を解説してきましたが、いかがでしたでしょうか?
米軍の撤退を決めたフィリピンは、在比米兵による犯罪行為の問題や不平等な協定への不満を抱えていましたので、国民が反米感情を抱き(マスコミによる煽り記事もありました)、そういう決断をしたのでしょうが、結果的にこの判断が中国に好機を与えることになっています。

現在、フィリピンのドゥテルテ大統領は、アメリカとの「訪問軍地位協定」の破棄をチラつかせたりしながら、国内の反米感情を煽っています。
これは、ドゥテルテ大統領が就任以来進めてきた「麻薬撲滅作戦」に関係しており、この作戦は国連を中心に世界から非難されていました。
そんな最中にアメリカが、フィリピンで「麻薬撲滅作戦」を指揮したデラロサ上院議員(前フィリピン国家警察長官)の米国入国査証を取り消したため、デラロサ議員と盟友関係にあり、激しやすいドゥテルテ大統領が反米感情を煽ったという指摘がされています。

このようにナショナリズムを煽り、国内や国外に強い姿勢を示すことは、ある支持層からは人気がとれるのでしょうが、現実的に考えて中国をひるますことが可能なのは、アメリカしかないわけですから、アメリカとの協定を、政治の駆け引きなどには使わないほうが賢明だと思うのですが、どうなんでしょうね。

日本の「在日米軍基地」に反対されている方々も、中国に対抗できる軍備を持たない日本から「アメリカ軍」がいなくなったらどうなるか?というのは「南シナ海問題」が教えてくれていますので、ご理解していただけると思うのですが、そうした方々の中に、尖閣諸島や沖縄、いずれは日本本土までが中国によって占拠されることを良しとする者がいた場合は「えらいこっちゃ」です。

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