CIA「中央情報局」

第二次世界大戦中に、ルーズベルトの死により、副大統領から昇格した、ハリー・トルーマン大統領は、海外からの様々な情報が、バラバラに上がってくるのを嫌がり、まとめて収集・管理する組織の創設を望みました。
そのため、1947年に国外での情報収集活動、特に反米的な団体・国家の監視や、その情報の収集を主目的に、大統領直属の政府機関として、設立されました。

CIAが関わったとされる主な作戦

「ペーパークリップ作戦」

これは、CIAが正式に設立される前(第二次世界大戦の終わり頃)に、おこなわれたものです。
この作戦によって、ドイツ人の優秀な科学者を、アメリカに連行しました。
このなかには、アメリカでの弾道ミサイルの開発や、NASAの功績に多大なる貢献をした、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンや、ドイツ核エネルギー計画の頭脳といわれた、ヴェルナー・ハイゼンベルクなどがいました。

1953年「アジャックス作戦」

1951年に、モマハド・モサデクがイランの首相に就任した後、それまでイランの石油産業を独占し、イラン政府への分配金を誤魔化していた、イギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社を排除し、石油会社を国有化しようとします。
これにたいして、CIAはイギリスの秘密情報機関(MI6)と協力して、パーレビ国王派によるクーデターを企てました。
CIAは、モサデク首相就任直後の、1951年からクーデターの計画を開始し、この計画には「TPAJAXプロジェクト」と暗号名がつけられました。

1955年「カシミールプリンセス号爆破事件」

中華人民共和国政府がチャーターした、インド航空機「カシミールプリンセス号」が空中爆発し、不時着水したもので、中華人民共和国の周恩来首相を含む、政府要人の暗殺を狙った、航空テロとされています。
中国共産党政府と対立していた、(台湾に追いやられた)中華民国側に買収された中国人清掃係が、イギリス植民地の香港国際空港で発火装置を仕掛けたとされています。
中華民国は関与を否定、中国共産党政府は、事件にアメリカ製の爆弾が使用されたことなどから、CIAの関与があったと主張しています。

1955年「自由民主党結成」

当時の日本では、勢力を増していく左派勢力に対抗するため、日本の保守政党であった「日本民主党」と「自由党」が一つとなり、自由民主党が結成されました。
この保守合同にCIAが関与していたことが、機密指定解除となった外交文書に記述されていました。

「MKウルトラ計画」

1950年代の初頭から、1960年代末までおこなわれていた、CIA主導の洗脳実験です。
LSDや他の薬物を同意なしに、CIA職員や軍人、医師、妊婦、精神病患者らに投与する実験をおこなっていた。
LSDを投与して、自白を引き出す理論が確立されたころ、敵側の人間に使用する前の検証として、売春婦を使ってギャングのリーダーを誘き寄せ、飲み物にLSDを混入させる実験までもおこないました。

1973年に、当時のCIA長官リチャード・ヘルムズは、関連文書の破棄を命じていましたが、辛うじて残されていた数枚の文書が、1975年にアメリカ連邦議会で公開されました。
公開されたCIAの文書によって、化学的、生物的な手段に留まらず、放射性物質にも着手したことが明らかとなりました。

「アコースティック・キティー」

1960年代に、CIAがネコをスパイ活動に利用しようとした計画です。
この計画で使用されたネコには、小型マイクと電池、さらに尻尾部分にはアンテナが埋め込まれました。
また、ネコが注意散漫になること(任務を忘れネズミを追いかけてしまう等)を未然に防ぐため、ネコにはあらかじめ、空腹を感じなくするための手術が施されました。
こうして訓練・手術等に費やした諸費用は、約1000万ドルだったといわれています。
しかし、あまりにも実用性に欠けると判断され、失敗に終わりました。

1961年「ピッグス湾事件」

在米亡命キューバ人部隊が、CIAの支援のもとで、グアテマラで軍事訓練を受けキューバに侵攻し、フィデル・カストロ革命政権の打倒を試みた事件です。
当時、当選したばかりのケネディは、就任前にCIAのダレス長官から、この作戦計画の説明を受けた時は、ことの重要さと大胆さに仰天したそうです。
そしてCIAが、キューバ政府軍の勢力を過小評価し「キューバ軍の一部が寝返る」という、根拠がない判断をするなど、杜撰な作戦計画であったことなどから失敗に終わりました。

このピッグス湾事件を第一次キューバ危機とし、翌1962年10月に、核戦争の寸前までいったキューバ危機を第二次キューバ危機とする呼び方もあります。

1962年「コールドフィート計画」

CIAが、放棄されたソビエト連邦北極調査基地から、情報を取り出すことを目的に、1962年5月から6月にかけて実行しました。
この基地の滑走路は、ソ連の破壊工作によって使用不能だったため、2人の情報収集要員は、B-17航空機から降下しました。
2人の帰還は、7日後にスカイフック・システム(地上の人間を航空機によって回収するためのシステム)によっておこなわれました。
この作戦は、調査員を遠い地域から回収できることを証明するとともに、ソ連の対潜戦と音響の技術に関する情報を得ることに成功しました。

1963年「アブドルカリーム・カーシム政権転覆支援」

1958年の「7月14日革命」でイラク王国を打倒し、イラクの首相となったカーシムは、イラク石油会社利権区域の90%の国有化措置や、OPEC設立会合をバグダッドで開くなど、先鋭的な路線を打ち出しましたが、クウェートへの領有権主張などで、西側諸国と対立します。
そしてCIAは、カーシム政権打倒を狙う、バース党側に資金援助しました。
※バース党から1979年に、フセイン大統領が誕生しました。

1972年「ウォーターゲート事件」

1972年6月17日に、ワシントンD.C.の民主党本部(ウォーターゲート・ビル)で起きた、盗聴侵入事件に始まる政治スキャンダルです。
この時に、現行犯逮捕された5人のうち3人が、元CIAの工作員でした。
もちろんですが、リチャード・ヘルムズCIA長官は、事件への関与を否定しています。

リチャード・ニクソン大統領が、辞任するまでの盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察官解任、大統領弾劾発議、大統領辞任のすべての経過を総称して「ウォーターゲート事件」と呼んでいます。

1974年「プロジェクト・ジェニファー」

プロジェクト・ジェニファーとは、CIAが特殊サルベージ船グローマーエクスプローラーをもちいて、1974年に太平洋に沈没した、ソビエト連邦のゴルフ級潜水艦K-129を、極秘裏に引き上げた際にもちいられたコードネームです。

1968年にK-129が、ミサイル発射可能な状態で作戦海域を大きくはずれ、ハワイ近海を航行するという不可解な事態のなか沈没し、周辺海域が放射線によって汚染される事態が発生しました。
このプロジェクト・ジェニファーは、冷戦期におけるもっとも複雑で極秘裏におこなわれた諜報作戦の一つといわれています。

1978年「グラディオ作戦」

冷戦期に、アメリカ合衆国と北大西洋条約機構(NATO)がおこなっていた謀略活動です。
CIAなどの情報機関が、イタリア共産党が大きな勢力となっていたイタリアで「反共の強力な指導者を国民が求める」もしくは「反共政権に国民の支持が向く」ようにし向けました。

現役のイタリア軍将校や、与党政治家も加入していた極右反共組織「ロッジP2(フリーメイソン)」などの協力をえて、右翼組織を使い、右翼組織とマフィアが仕掛けた一般人を標的とする無差別テロ事件が「極左勢力による犯行」と見せかけるための秘密工作をおこないました。

1979年「サイクロン作戦」

サイクロン作戦とは、CIAがアフガニスタン紛争中の1979年から1989年にかけて、ムジャヒディン(アラビア語でジハードを遂行する者を意味する民兵集団)に、武器や資金の提供をおこなった計画に対するコードネームです。
CIAが極秘裏におこなった作戦としては、最長かつ最も費用のかかったものの1つとなりました。

こうして、アメリカが資金や武器を提供していたムジャヒディンには、後にアルカイダのリーダーとなるウサマ・ビン・ラディンも参加していましたので、批判の対象となりました。

1986年に発覚した「イラン・コントラゲート事件」

1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」で、アメリカは途中から、イラクのフセイン政権を経済・軍事で支援しました。
しかし、秘密裏にイランへの武器輸出を決め、NSC(国家安全保障会議)とCIAの主導で、密売が進められました。

さらに、このイランへの武器密売でえた利益を、アメリカ国民に隠しつつ、ニカラグアの反政府ゲリラ組織である「コントラ」に支援金として渡していました。

ここに挙げたのは、情報公開法やマスコミによるスクープ、関係者からのリークによって明らかになっているものの一部を抜粋しただけですので、実際におこなわれている活動からすれば「氷山の一角」です。

私たちがニュースで見聞きする、様々な「事変」にも、ひょっとしたらCIAなどを含む、情報機関の工作活動が、影響してるかもしれませんね。

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