ここでは「第一次世界大戦」の開戦時の出来事をあげていきます。開戦前の情報が欲しい方はコチラをクリックしてください。
この記事の目次
第一次世界大戦が開戦
オーストリアの最後通告
サラエボ事件(1914年6月28日)をうけて、皇位継承者を殺されたオーストリア=ハンガリー帝国(以下オーストリア)が、セルビア王国(以下セルビア)にたいして、7月23日に最後通告をおこないました。
この最後通告でオーストリアは、セルビアに対して10項目の要求を突きつけましたが、セルビアはどうしてもその中で、2項目ついては同意することができませんでした。
イギリスの外務大臣エドワード・グレイは「ある国が他国に対して提示した文書の中でも、最も恐ろしいものである」と、この最後通告を評しています(この最後通告は到底同意できるものではなく、オーストリアがセルビアに侵入する口実ということ)。
このセルビアの対応に、不満をもったオーストリアは、7月25日に国交断絶し、7月28日に宣戦布告します。そしてこれが、人類史上初の世界大戦「第一次世界大戦」の幕開けです。
宣戦布告のときに、オーストリアがセルビアに送った電報は、ユネスコの世界記憶遺産に登録されています。
※オーストリア=ハンガリー帝国の宣戦布告については下方でも解説しています。
戦線がヨーロッパ全土へ拡大
この時期の列強国は、勢力圏や植民地を拡大していってました。そのなかで大きな対立軸として、イギリスの「3C政策(アフリカからインドへの帝国主義支配)」と「ドイツの3B政策(ベルリンからバグダッドを結ぶ、鉄道の整備と付随する整備をもとに、経済圏に取り込む)」がありました。
そしてヨーロッパの伝統的強国であるイギリスと、新興国のドイツという2か国を中心に、それぞれの立場や思想に別れて、ヨーロッパで同盟をむすんでいました。
※とはいっても、イギリス側が圧倒的に勢力が強く、ドイツ側は弱いです。
このため、局地戦とおもわれてた戦争は、瞬く間にヨーロッパ全土を中心に世界へと拡大していきます。
1914年7月~8月の参戦状況や出来事
(主な出来事の解説は下の方に書いておきますので、そちらをご覧ください)
- 6月28日
セルビア人の若者が、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者、フランツ・フェルディナント公を殺害(サラエボ事件) - 7月5日
オーストリア外交官のホヨス伯爵アレキサンダーは、ドイツの態度を確認するためベルリンを訪問 - 7月6日
ドイツは無条件の支援をオーストリア=ハンガリーに約束(白紙小切手) - 7月23日
オーストリア=ハンガリーは最後通告(オーストリア最後通牒)をセルビアに送付、履行までの猶予は48時間 - 7月24日
セルビアはロシアからの支援を得ることを模索し、ロシアは最後通告を受け入れないようセルビアに助言
ドイツはオーストリアの立場を支持することを公式に宣言 - 7月25日
ロシア皇帝は大臣会議の決定を承認し、ロシアの部分動員(110万人)を開始 - 7月28日
オーストリアがセルビアに宣戦布告 - 7月31日
オーストリアが総動員の命令をくだす - 7月31日
ドイツが戦争準備体制に入る - 7月31日
ドイツはロシアに最後通告を送付し、12時間以内に軍事的な準備を中止することを求める - 7月31日
イギリスは、フランスとドイツ両国に、ベルギーの中立を支持するよう依頼し、フランスはこれに同意したが、ドイツは無回答 - 7月31日
ドイツは、ドイツとロシアが戦争になった場合、フランスは中立を保つかどうかをフランスに尋ねた - 8月1日
フランスが総動員の命令をくだし、配備計画「プラン17(対ドイツを想定した計画案)」を選択 - 8月1日
ドイツが総動員の命令をくだす。配備計画「Aufmarsch II West(軍の8割を西に配置するプラン)」を選択 - 8月1日
ドイツがロシアに宣戦布告 - 8月1日
ロシア皇帝は、ドイツ国王の電報に対し「今日の午後に、ドイツ大使が私の政府に宣戦の通告を渡さなかったとすれば、私は喜んで君の提案を受け入れただろう」と述べて返答 - 8月2日
ドイツとオスマン帝国は秘密条約に署名して、独土同盟を結んだ。 - 8月3日
ドイツは、フランスに求めていた中立維持を断られたため、フランスに宣戦布告
ドイツは、ドイツ軍がベルギー領内を自由通過することをベルギーが認めない場合、ベルギーを敵とみなすとした - 8月4日
ドイツはシュリーフェン・プラン(対フランス侵攻作戦)から着想をえた攻勢作戦を開始 - 8月4日深夜
ドイツからベルギーの中立を保証する通知がなかったので、イギリスはドイツに宣戦布告 - 8月6日
オーストリア=ハンガリーがロシアに宣戦布告 - 8月23日
日英同盟により日本がドイツに宣戦布告 - 8月25日
日本がオーストリア=ハンガリーに宣戦した。
開戦時の「主な出来事」解説
第一次世界大戦のきっかけとして有名な「サラエボ事件」に関してはコチラをクリックしてください。
白紙小切手
7月6日、ドイツは同盟国オーストリア=ハンガリーに、対セルビア戦における無条件の支援を与えました。これが「白紙小切手」です。
ドイツにとって、オーストリア=ハンガリーは、唯一の同盟国であり、もしオーストリア=ハンガリーの威信が回復されなければ、バルカン半島における立場は修復不可能なほどに傷つけられ、セルビアやルーマニアの民族統一主義を更に勢いづけることになるという考えがありました。
セルビアに対して早めに戦争を仕掛ければ、セルビアを排除できるのみならず、ブルガリアやルーマニアに対しても外交的に更に有利になれるかもしれない。
セルビアが負ければ、それはロシアの負けでもあり、ロシアのバルカン半島における影響力も弱まる、というふうに考えました。
ドイツは、オーストリア=ハンガリーを支援して、セルビアと戦争するならば、セルビア側に立って参戦してくるであろう、ロシアの準備が整っていないうちにすべきである、という意見も出てきました。
「サラエボ事件」直後は、皇位継承者を暗殺されたオーストリア=ハンガリーに対して、同情的な世論が多かったので、ドイツはオーストリア=ハンガリーに「白紙小切手」を与え、素早く戦争に踏み切って欲しかったのです。
しかし、オーストリア=ハンガリーの動きはドイツが考えてたよりも鈍く、ロシアなどの三国協商側に準備する時間を与え、そのあいだに世論も「オーストリア=ハンガリーは侵略の口実に、暗殺事件を利用している」といったものに変化していきました。
ロシア動員
7月24から25日、ロシアの大臣会議が開かれ、今回の危機に対応して、ロシアはセルビアとの同盟関係はなかったのですが、ロシア陸軍100万人以上・バルチック艦隊・黒海艦隊を、秘密裏に部分動員することで合意しました。
この部分動員が与えた影響は大きかったといえます。
この部分動員は、セルビアが最後通告を拒否する前におこなわれ、オーストリアが7月28日にセルビアに宣戦布告する前におこなわれ、さらにドイツが何も軍事的手段をとっていない段階でおこなわれたのです。
オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告
当初セルビアは、オーストリアからの最後通告にたいして、全ての条項を受け入れることを検討していましたが、ロシアの動員準備の知らせを聞いて態度を硬化させます。
先ほども書きましたが、イギリスの外務大臣エドワード・グレイは「ある国が他国に対して提示した文書の中でも、最も恐ろしいものである」というふうに、この最後通告を評しています。
それでもセルビアは、10項目中8項目に合意し、残り2項目でも1つは合意できるとしましたが、最後の1つだけは、合意できないとしています。
そしてオーストリア政府は、これを知ると7月25日に外交関係を断絶し、7月28日にセルビアに宣戦布告をおこないました。
※しかしセルビアの返答文は、大きな譲歩をしている印象を与えようとはしているが「実際のところ、多くの点で拒否の匂いをただよわせるものになった」と返答文作成に関わった者が述べています。
イギリスがドイツに宣戦布告
ドイツが中立国であるベルギーに侵攻したことで、イギリスは8月2日、ドイツに対して、軍を撤退させなければ戦争に訴えるという最後通告をしました。ドイツはこれに従わなかったため、イギリスは8月4日ドイツに宣戦しました。
表向きの理由は、イギリスは1839年のロンドン条約の下、ベルギーの中立を保護する必要があるというものにし、大義名分をたてて、国民の支持を奮い立たせようとしています。
しかし、1839年のロンドン条約は、ベルギーの中立保護をイギリスに委託するというものではありませんでした。
では、なぜ参戦したのか?といいますと・・・
イギリスが参戦せずに、ドイツが勝利した場合は、ドイツが勢力圏を拡大するこになり、これは受け入れられない。
イギリスが参戦せずに、協商国側がドイツに勝利した場合は、同盟国を見捨てた国として、影響力・発言力の低下を招く。
このようなことを考慮し、参戦へと踏み切りました。
このようにして、ヨーロッパの5大国
イギリス帝国・ロシア帝国・ドイツ帝国・フランス・オーストリア=ハンガリー帝国が参戦した、第一次世界大戦がはじまりました。