今回の記事では、第一次世界大戦が終戦してから、第二次世界大戦が勃発するまでを、サクッとかいていきます。
第一次世界大戦後の世界
第一次世界大戦の戦勝国
アメリカ
第一次世界大戦に終盤から参戦したアメリカは、参戦前には大量の物資や多額の軍事公債を提供していましたので、大きな利益を得ていました。この戦争以前から、イギリスとドイツを抜いて、世界第1位の経済規模にまでなっていましたが、そのほとんどが内需だったので、(35億ドルの)純債務国(資産より負債が多い国)でした。
それが、この戦争で得た、大きな利益によって、(125億ドルの)債権国にかわり、国際金融市場の中心となっていきます。
そして、イギリスやフランスから、軍事公債の返済の免除の要請をうけましたが、これを拒否しました。
またヨーロッパでは、第一次世界大戦の影響から、復興しようとしていましたので、大量の物資が必要となりました。
アメリカは、このおかげで輸出がさらに高まり、外需を成長させていきます。しかも、輸入品には高い関税をかけて、国内の産業を守るという手法をとったので、世界の富がアメリカに集中する構造ができました(この当時、アメリカの金保有量は、全世界の半分近くだったといわれています)。
この好景気の時代は「狂騒の20年代」と呼ばれていて、途中からはヨーロッパも含めて、西側諸国全体に広がりをみせました。
しかし、1929年の6月頃から、景気はピークアウトしていき、10月の終わり頃には、ウォール街で大暴落が起こります。この大暴落は「ブラック・サーズデー」「ブラック・フライデー」「ブラック・マンデー」「ブラック・チューズデー」という4つの段階で起こりました。
これは、ここから10年間にわたって続く、世界恐慌のきっかけとされています。
イギリス
第一次世界大戦後のイギリスは、戦勝国とはいえ、輸出の激減(多くの商船を失ったため)・多大な人的被害・多額の債務のせいで、産業革命以降から築いてきた国際的優位性を、失いつつありました。
戦後のイギリスは、50億ドルの外国証券を売却するはめとなり、そして60億ドルもの対外債務を負い、さらには対外投資の4分の1を失いました。
国内の政治では、社会民主主義政党として労働者の生活の向上を唱え、失業保険の充実、社会保障制度の整備などに努めてきた、中道左派の政党「労働党」が躍進し、1924年には労働党党首であった、ラムゼイ・マクドナルド首相が誕生しました。
※この第1次マクドナルド内閣は、労働党と自由党の連立政権でしたので、すぐに解消されてしまい、1年もっていません。
1929年の総選挙で労働党が、初の議会第一党となったので、第2次マクドナルド内閣が誕生します。
しかし、第一党とはいえ、過半数は占めていませんでした。そんな発言権・実行力の弱い少数内閣を、世界恐慌が襲います。
フランス
フランスは、第一次世界大戦の主戦場(西部戦線)となったため、国内の被害が甚大でした。
560万人以上の兵士が負傷し、さらに150万人以上の兵士と、30万人以上の民間人が戦死するというとてつもない被害にみまわれました。
そしてこれは、フランスの総人口の8分の1の規模にあたります。
国土の荒廃・戦債の支払いなどがあり、経済は厳しい状況でしたので、ドイツからの賠償金の取り立てを厳しくしていきます。
この動きのなかで「ルール占領(当時の同地方は、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部)」がおこなわれました。
しかし「ルール占領」はドイツに大混乱とインフレをもたらしただけで、失敗に終わりました。
フランスでは、政治の不安定が続いていき、第一次世界大戦が終わってから、第二次世界大戦が勃発するまでの約20年の間に、30人以上の首相が交代するという、異例の事態になってしまいました。
第一次世界大戦の敗戦国
ドイツ(ワイマール共和政)
1919年に、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約「ヴェルサイユ条約」が締結さたので、ヴェルサイユ体制が成立しました。
講和ヴェルサイユ条約において領土の一部を喪失しました。
その領域は、民族自決主義(ウィルソンアメリカ大統領が提案)のもとで誕生した、ポーランド・チェコスロヴァキア・リトアニアなどの領土に組み込まれました。
しかし、これらの領域には多数のドイツ系住民が居住していたので、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民の処遇の問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていました。
また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられていました。
1922年、フランスが賠償金支払いを要求して「ルール占領」を強行したことによって、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生します。
こうしたインフレなどもあり、国民の政府に対する不満は高まっていってました。
大半のドイツ国民は、敗戦の半年くらい前まで、戦局を有利にすすめていると思っていました。
東部戦線ではロシアが革命によって崩壊し、ドイツ軍は西部戦線(フランス)に軍隊をフル動員し、パリまでもう少しのところまで迫っていってたと思っていたのです(実際は膠着状態が長期にわたって続いてました)。
というわけで、ドイツ国内の被害は限定的(戦場はほとんど国外)だったこともあり、国民としてはなんで負けたのか分からい、といった状況だったのです。
この敗戦の原因を、ドイツ革命に見出したいナチスは「背後からの一突き」主張を利用しました。
そして、この主張は右派や保守層に広く受け入れられていきます(つまり、ドイツが弱かったから負けたのではなく、卑劣な市民の裏切りによって敗れたのだと)。
※「背後からの一突き」発言は、ドイツの敗戦の原因を調査する調査委員会で、ヒンデンブルク元参謀総長(タンネンベルクの戦いを勝利した英雄)がした発言が、発端となっています。
余談ですが、第二次世界大戦の戦後処理にあたって連合国側は、ドイツ側に「背後の一突き」と主張できる余地のない、完全な敗北を与えねばならない!として、無条件降伏の主張や、ヒトラーから後継指名されたフレンスブルク政府の否認などの、強硬策をとることになったのです。
そして、第一次世界大戦連合国との休戦協定に調印した、マティアス・エルツベルガーが暗殺されたことや、ドイツ国大統領(ワイマール共和政初代大統領)フリードリヒ・エーベルトが裁判所において「国家反逆罪」を犯したと認定されたこと、さらには共和政そのものへの不信感が強まっていき、ナチス党は国民からの支持を集めていきます。
ナチスは「背後からの一突き」を公的な第一次世界大戦観として採用し、アドルフ・ヒトラーが政権を獲得するのにも一役買うことになりました。
エーベルト初代大統領が死去後、2代目大統領には、ヒンデンブルクが就任しました。
ヒンデンブルク大統領は、1933年にナチス党首アドルフ・ヒトラーを首相に任命しました。
ここから、ヒトラー首相はヒンデンブルク大統領を巧みにもちあげ、事実上の傀儡政権へとしていきました。
ヒトラー首相は、ドイツを「国際連盟」と「ジュネーブ軍縮会議」から脱退させ「ドイツ国家元首法」を制定し、大統領が死去した場合は、大統領の全権を、首相に統合することを定めました。
※この「ドイツ国家元首法」を制定した翌日に、ヒンデンブルク大統領は死去しました。
こうしてドイツでは、ナチスのアドルフ・ヒトラーが国家元首となり、第二次世界大戦へと向かっていきました。
今回の記事は、ここまでです。読んでくれて、本当にありがとうございました。