前回までは「第一次世界大戦」のきっかけと、開戦時の動向と、各国の参戦理由を解説していますので、興味のある方は、そちらも見てもらえれば嬉しいです。
ここからは、ザックリと主要な戦いを振り返ってみたいと思います。
この記事の目次
第一次世界大戦の主要な戦い
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ドイツ軍のベルギー侵攻(1914年8月2日~)
シェリーフェン・プラン(西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画)に基づいて、ドイツは8月2日、ベルギーに対しドイツ軍の通過を要求、拒否されると4日に侵入を開始しました。
中立国ベルギーが、侵犯されたことを理由にイギリスは参戦しました。これは、ロンドン条約(1839年にベルギーの永世中立国を認めた条約)に沿っての行動だと、イギリスはしています。
ドイツ軍に対し、ベルギーは予想に反して激しく抵抗しましたが、ドイツ軍は6日にリエージュを包囲して、列車輸送式の大砲で大量の砲撃を加え、さらには飛行船ツェッペリン号による空爆を加えます。大量の砲撃と空爆という近代戦がリエージュ攻撃から始まったといわれています。
この戦いで、小国ベルギーの陸軍は勇敢に抵抗しましたが、ドイツ軍の予定表を2日遅らせたのみにとどまりました。またリエージュの戦いはエーリヒ・ルーデンドルフが最初に名声を得た戦いでもあります。
西部戦線(1914年8月~)
西部戦線とは、シェリーフェン・プランに基づいて実行された、対フランス戦の攻防です。
このドイツ軍対フランス軍の戦いが、世界大戦への事実上の幕開けだといえます。なぜならこの当時は、誰も世界大戦に発展するなど、考えもしなかった為で、まさか国力をすべてつぎ込んでいく総力戦になるなど、思ってもなかったことでしょう。
この戦いは、計画では6週間でしたが、ドイツ政府が休戦協定に調印する1918年の11月まで続きます(4年以上)。
第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍はすぐにベルギーとルクセンブルクに侵入し、さらにフランス北東部の工業地域を制圧しようと試みました。
緒戦の勝利により、パリ付近にまで攻め入ったドイツ軍部隊は第一次マルヌの戦い(下記にて解説)における敗北により、フランス軍の殲滅に失敗し、戦線を後退・整理させます。
マルヌの戦い
ドイツ軍は大軍をベルギーから侵入させて、パリの西方に向かわせました。パリの西側を迂回する計画であったのですが、現地指揮官クルップ将軍は途中で、方向を転じパリの東側に向かいます(戦果を欲した将軍が進路を変更したのです)。
この移動中のドイツ軍を、イギリスの偵察飛行機が発見し、フランス軍が急襲しました。これにより、ドイツ軍は進撃を止めて、安全と部隊の再編(部隊の一部を東部戦線におくる)のため後退しました。
こうして当初の計画では「6週間でパリを陥落させられる」というドイツの戦略はくずれてしまい、長期戦に突入することになります。
この後、スイスからイギリス海峡にわたる長い戦線が構築され、前線の両側ではお互いに、塹壕が掘り進められました。この戦線は、第一次世界大戦のほとんどの期間を通じて、大きく変化することはありませんでした。
この戦いでは、お互いに防御側が有利であったため、攻撃に転じた側が大量の犠牲者をだしていました。そのため、前線の位置に変化はなく膠着状態が続きました。これを打破しようと、戦車・飛行機・毒ガスなどの新兵器を使いましたが、戦況に大きな成果をもたらすことにはなりませんでした。
この戦いは「西部戦線異状なし」といった映画化もされて、第3回アカデミー賞を受賞しています。
東部戦線(1914年8月~)
東部戦線とは、中央ヨーロッパから、東部ヨーロッパにかけて構築された戦線をさしています。
西部戦線は塹壕戦で膠着したのですが、東部戦線の戦況は流動的なままでした。
緒戦でロシア軍は、オーストリア領ガリツィア・ロドメリア王国(東ガリツィア)およびドイツ領東プロイセンへ進攻しましたが、東プロイセンではタンネンベルクの戦い(下記にて解説)でドイツ軍に大敗してしまいます。
この敗北以降、ロシア軍が積極的な攻勢に出ることは少なくなり、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の優勢のまま戦線は長期化しました。
ロシア軍は、ブルシーロフ攻勢において、オーストリア=ハンガリー帝国軍を相手に勝利をおさめますが、他には目立った戦果は挙げることができず、軍の近代化という面で一歩先をいくドイツ軍に対し、次第におされていきます。
1917年、戦争による経済疲弊などで国民の不満は高まり、ついにロシア革命が起こります。
3月には皇帝ニコライ2世は退位し、10月になってボリシェヴィキ(ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派)が政権を掌握する。ボリシェヴィキ政府は即座に同盟国側との休戦交渉を開始しましたが、交渉が停滞しているうちに、反ボリシェヴィキのウクライナ人民共和国が、同盟国側についてしまいます。
これにより、同盟国側との戦争は再開され、ボリシェヴィキ政府は窮地に立たされました。
1918年3月に、ボリシェヴィキ政府と同盟国側との間で、同盟国側への広大な領土を割譲するという厳しい内容の、ブレスト・リトフスク条約が結ばれました。これにより東部戦線は終結します。
タンネンベルクの戦い
1914年8月に、ロシア軍は、ドイツの予想を上回る速さで進撃をしていましたが、次第に補給と通信の不備が露呈してしまい、進撃が停滞してしまいました。
ドイツの戦線立て直しに派遣された、新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受し、その進路を知ることに成功します。そして列車で大軍を移動させ、タンネンベルクのロシア軍を急襲して大勝利をおさめました。
このタンネンベルクの戦いでの、ロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく傷つけ、ロシア革命の勃発のきっかけとなりました。
海の戦い
第一次世界大戦の、開戦前からヨーロッパでは、イギリスとドイツが、海軍の軍備増強に取り組んでいましたので、お互いに巨大艦隊を保有していました。
開戦当初、イギリスが制海権を握り、ドイツ軍に対して海上封鎖をおこないます。これにより、ドイツ軍はバルト海からでられない状態がつづきました。
しかし、ドイツ軍は、陸地での戦いが膠着状態におちいると、食糧を輸入に依存している、イギリスをたたくために、戦略的な海上決戦を挑みます。
1915年5月のユトランド沖海戦で、ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えましたが、海上封鎖網を打開するまでにはいたりませんでした。そこで考えられたのが「無制限潜水艦作戦(英仏によって実施された海上封鎖に対抗するために、イギリス周辺の海域を「戦争区域」とみなし、その区域内の敵商船は予告なしに、潜水艦が水雷攻撃をおこなう)」です。
この「無制限潜水艦作戦」は、イギリスに打撃を与えましたが、中立国の無防備な商船も攻撃(ルシタニア号事件)するので、国際世論で非難にさらされます。さらに、アメリカに参戦のきっかけを、与えることになってしまいました。
そしてイギリスは「無制限潜水艦作戦」の対策として、ロイド・ジョージが考案した「護送船団方式(コンボイ・システム)」が成功し、被害を軽減させています。
結局は、開戦後からドイツの新型艦の建造は大幅にペースダウンしていて、戦争後半になると続々と増強されていくイギリス海軍に比べ、明らかに劣勢となっていってました。
そのため、Uボートによる無制限潜水艦作戦に頼らざるえなくなっていったのです。
その後、キール軍港での水兵の反乱がドイツ革命、大戦終結の引き金になっていきました。
第一次世界大戦の膠着の打開
開戦から1ヶ月のマルヌの戦い以降、短期決戦の思惑は崩れ去り、膠着状態の続く泥沼の展開となっていました。しかし、それを打破する出来事が発生します。
アメリカの参戦
開戦時から、モンロー主義(孤立主義)にのっとり、中立を表明してきたウッドロウ・ウィルソンアメリカ大統領が「ルシタニア号事件」後の、世論の変化をくみ取り、参戦を表明し議会で承認されます。
ついに1917年4月6日、アメリカはドイツ(同盟国側)に宣戦布告しました。
このアメリカの参戦は、ドイツも無制限潜水艦作戦を再開した時点で、予想していたことでした。
ただ、ドイツが予想できなかったのは、アメリカの戦争準備が迅速におこなわれて、強力な装備に身を固めたアメリカ軍兵士たちが、イギリスが屈服するより前に、ヨーロッパ戦線に到着するという事態でした。
無制限潜水艦作戦によって補給を絶たれていたイギリスは、ドイツ軍首脳たちの計算では、6か月くらいで屈服するはずでした。
しかし、イギリスは大きな損害を出しながらも、ロイド・ジョージの命令した前述の「護送船団方式」によって封鎖に耐え抜いたのです。
やがて、次々と投入されるアメリカ軍兵士と、アメリカからの豊富な軍需物資の投入とが、ヨーロッパ戦線でのドイツの敗北を決定的なものとしました。
ロシア革命
2月革命
1917年3月に、ロシアで起こり、民衆蜂起によってロマノフ朝を倒した革命です。
第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に押され、国土の多くを占領されてしまいました。
そして戦争は、国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させていきました。特に人口の多い首都ペトログラードでは問題が深刻で、1916年頃から盛んにストライキが起こっていました。
4月テーゼ
1917年4月に、ロシア革命の中で、ヴォリシェヴィキ指導者レーニンが示した革命指針です。「すべての権力をソヴィエトへ」と主張しました。
亡命先のスイスから、列車でペテログラードに帰ったレーニンは、すぐに「4月テーゼ」として知られる「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」とう論文を発表し、ボリシェヴィキの運動方針を示しました。
7月暴動
1917年7月に、社会革命党(エスエル)右派のケレンスキーが臨時政府の首相となります。
そして、第一次世界大戦参戦を継続し、ドイツにたいする攻勢を強めると、国内の労働者は反発してストライキを決行しました。
7月4日にはボリシェヴィキが指導して、首都ペトログラードで50万人のデモが決行されると、臨時政府はデモ隊に発砲をして弾圧し、レーニンをドイツのスパイとして告発しました。
レーニンはしかたなくフィンランドに逃れましたが、ドイツに対する軍事攻勢は失敗し、9月になると臨時政府の総司令官コルニーロフ将軍が、戦争の継続を主張して反乱を起こし、革命は危機に陥ります。
この間、レーニンは亡命地のフィンランドで「国家と革命」を書いて、議会政治を否定し、ボリシェヴィキ独裁政権を樹立するための理論化を図りました。
10月革命
1917年11月、レーニンによって指導されたボリシェヴィキは、権力奪取を目指して武装蜂起し、ついに臨時政府を倒します。
ケレンスキーは女装して国外に逃亡し、10月革命に成功しました。ただちに第2回全ロシア・ソビエト会議を開催して、ソビエトがすべての権力を掌握することを宣言します。
同時に「平和についての布告」で交戦国すべてに即時講和を呼びかけ、「土地についての布告」で土地公有化の実施を宣言、世界最初の労働者階級が権力を握る社会主義政権が誕生しました。狭い意味ではこの十月革命をロシア革命という場合もあります。
この「平和についての布告」は連合国からはすべて無視されましたが、ドイツは好機と考えて、1918年3月、両者はブレスト・リトフスク条約を締結し、単独講和を成立させ、ソビエト・ロシアはポーランドの独立と、その他の大幅な領土縮小を認めました。
「第一次世界大戦」終結
ドイツ軍は、ロシアとの単独講和によって、東部戦線の兵力を西部へと振り向けましたが、1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参戦した連合軍によって撃破されてしまいます。
そこからドイツ軍の後退が始まりました。バルカン方面でも、ブルガリアが9月末に停戦に応じ、オーストリア軍はサロニカからの、連合軍の北上とイタリア軍の攻勢に対して戦意を喪失し、オスマン帝国軍もイギリスのパレスティナ進出と、アラブの反乱で苦しみ、10月にそれぞれ停戦に追いこまれてしまいました。
ドイツ革命
1918年11月3日、ドイツで無謀な出撃命令を拒否した、海軍兵士たちがキール軍港の水兵反乱を起こします。
それがきっかけとなり、各地で兵士・労働者が蜂起するドイツ革命が勃発して、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、帝政が倒されました。
ドイツ共和国の臨時政府の実権を握った、社会民主党のエーベルトは、11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、戦争を終わらせました。
ドイツでは、旧社会民主党左派の結成したドイツ共産党が1919年1月に蜂起し、一気に社会主義革命への転換を目指したが、臨時政府によって鎮圧されてしまい、2月に資本主義・議会主義を掲げるワイマール共和国が成立しました。
今回の記事はここまでです。少し長くなってしまい、すいませんでした。
読んでくれた「あなた!」本当にありがとうございました。