前回は、イギリス帝国・ロシア帝国・ドイツ帝国・フランス・オーストリア=ハンガリー帝国が参戦し、第一次世界大戦がはじまっていくところまでをかきました。

第一次世界大戦の年表をご覧になりたい方は、コチラをクリックしてください。

第一次世界大戦の参戦国

連合国と同盟国

帝国主義の列強国が、同盟国側と連合国側の二陣営に分かれ、それに周辺諸国が利害関係の対立、領土的野心などの思惑からいずれかの陣営に加わり、世界が大きく二分されることになりました。

連合国(または協商国)はフランス、イギリス、ロシアの三国協商を軸として、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ギリシアのバルカン諸国、三国同盟を離脱したイタリアが加わりました。
ヨーロッパ以外の国では、日本(1914年8月)、中華民国(17年8月)など、32カ国が連合国側に参戦しました。
また、イギリスの海外自治領であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカも協力し、植民地インドからも徴兵されました。
アメリカの参戦は大戦の後半、1917年4月でしたが、それが連合国側の勝利に決定的な要因となりました。

日本の参戦理由

1902年に、日本とイギリスの2国間でむすばれた、日英同盟の内容が、1911年に一部改定(第3次日英同盟)されていて、ドイツを脅威の対象として加えていました。

日本は日英同盟を口実に、連合国(協商国)側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地を攻撃して戦争を世界規模に拡大していき、また一部艦隊を地中海に派遣しました。

当初イギリスは、日本の参戦を要請しましたが、日本が1915年に、二十一カ条の要求(日本が山東省の利権などドイツ権益の継承を中国に要求)を出すなど、中国での権益拡張をあからさまにしていくと、次第に警戒するようになっていきました。

イタリアの参戦理由

1914年7月に第一次世界大戦が始まると、イタリアは、ドイツ・オーストリア=ハンガリーとの間で三国同盟を結んでいましたから、当然ですが同盟国側に参戦するものと考えられていましたが、参戦しなかったのです。

同盟国側での、参戦拒否の理由としては、三国同盟は防衛同盟である。
そしてオーストリア=ハンガリーが、セルビアに対して宣戦したのは攻撃に当たる。
だからイタリアには、参戦の義務はない。
というものでしたが、実はイタリアは、イギリスなど協商国側と極秘交渉をしていました。そして1915年4月に、秘密条約である「ロンドン秘密条約」を締結したのです。

ロンドン秘密条約でイタリアは、連合国(協商国)側に参戦することを約束するかわりに、オーストリアに支配されている「未回収のイタリア(イタリア王国成立後もオーストリア領として残された地域)」といわれた、イタリア人居住地とそれ以外の新たな領土を、割譲される保証を得ました。これによりイタリアは、1915年5月、連合国(協商国)側に参戦したのです。

オスマン帝国の参戦理由

オスマン帝国(現在のトルコ)は、1908年の青年トルコ革命で立憲君主政(国家君主の権限を憲法によって制限している制度)を復活させていて、青年トルコ政権による、革新政治が展開されていました。
新政権は近代化のために欧州諸国から外国人の顧問を招聘していましたが、軍事面ではドイツ軍人のザンデルス将軍を顧問としていました。
第1次バルカン戦争、第2次バルカン戦争で、このザンデルス将軍の指導を受けた、青年トルコの急進派エンヴェル=パシャが活躍して、両者の結びつきは強くなっていきました。
オスマン帝国政府内には、親フランス勢力もあったのですが、エンヴェル=パシャがドイツとの同盟を推進し、秘密条約でドイツ=トルコ同盟条約(独土同盟)を成立させたのです。

オスマン帝国の参戦を主導したのは、青年トルコ政権の陸軍大臣エンヴェル=パシャでした。パシャは、最大の敵国である、ロシア帝国を解体し、オスマン帝国の自然国境を回復するということで参戦を正当化しました。
その参戦理由の中には、ロシアからの支配を受けている、中央アジアのトルコ系民族を解放し、サマルカンドを都としたトルコ人の帝国を樹立するという、パン=トルコ主義がありました。
そして、パシャが上手かったのはパン=トルコ主義を突出させることなくパン=イスラーム主義に結びつけていき、第一次世界大戦への参戦にあたってジハードを宣言したのです。
こうしてロシア領内だけではなく、アフガニスタンやインドなどのイスラーム教徒にも反英闘争を呼びかけたのです。

こうしてオスマン帝国は、1914年10月に同盟国(ドイツ)側として、第一次世界大戦に参戦しました。

アメリカの参戦理由

モンロー主義(孤立主義)

1914年の第一次世界大戦の開戦に対して、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は「欧州諸国間の争いには介入しない」というモンロー主義(孤立主義)の伝統を守ることを公約としていたので、中立の立場を表明しました。
当時のアメリカには、ドイツやイタリアからの移民も多かったので、参戦によって国論が分裂することを恐れたという理由もあります。
一方でウィルソン大統領は、イギリス・ドイツの双方に対して、特使を派遣するなどして和平策を模索し、国際協調に乗り出す姿勢も示していました。

ルシタニア号事件

そんなアメリカでしたが、次第にドイツの好戦的な姿勢に対する国内の非難が強まっていきます。
さらに、1915年5月「ルシタニア号事件(ドイツ軍の潜水艦がイギリス客船を撃沈し、多数のアメリカ人乗客が犠牲)」をきっかけに、ドイツに対する怒りが強まっていきました。

※「ルシタニア号事件」に対するドイツの見解
ドイツ政府は、それ以前の1915年2月に、英仏によって実施された海上封鎖に対抗するために、イギリス周辺の海域を「戦争区域」とみなし、その区域内の敵商船は予告なしに、潜水艦が水雷攻撃をおこなうという「無制限潜水艦作戦」を宣言していました。
また、アメリカからの抗議に対しては、ルシタニア号は補助巡洋艦が偽装していたものであり、カナダ兵と戦争器材が搭載されていたので、アメリカの中立義務違反であると反論しています。
しかし「ルシタニア号事件」に対する、アメリカや他の中立国による国際的非難がますます強まったため、無制限潜水艦攻撃は事件後、一旦停止しました。

ドイツへ宣戦布告

そうして、一旦停止していた無制限潜水艦作戦でしたが、ドイツが再開します。

※ドイツとしては「無制限潜水艦作戦(イギリス周辺の海域を戦争区域とみなし、その区域内の敵商船は予告なしに、潜水艦が水雷攻撃をおこなう)」を再開しないことには、偽装商船(登録は商船ですが兵士・戦闘物資を輸送している)が自由に行き来するので、連合国(敵)側に大量に補給がされてしまうといった事情がありました。

「無制限潜水艦作戦」の再開をうけて、ウィルソン大統領は、モンロー主義(孤立主義)を転換し、議会に対してドイツとの戦いを「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」と意義付けて参戦を提案しました。
そしてアメリカ議会は、1917年4月6日にドイツに宣戦布告したのです。

※大前提の理由としては、ドイツの「無制限潜水艦作戦」に対する反発ですが、その背景には、イギリス・フランスにおこなっている、アメリカの工業製品の輸出が、ストップすることへの恐れがありました。
そして、もしもイギリスとフランスが、敗北するようなことになれば、アメリカは莫大な資金援助を回復できなくなるといったことを、恐れたものと考えられています。

今回の記事はここまでです。また次回を楽しみにしてもらえたらすごく嬉しいです。それでは、読んでくださった「あなた!」本当に、ありがとうございました。

おすすめの記事