2020年、現在にも続いている「シリア内戦」や、トルコによるシリアへの攻撃、過去にはイスラエルとアラブ諸国の間に勃発した「中東戦争」や、中東地域の大国間で争った「イラン・イラク戦争」、さらにはアルカイダやISILなどのイスラム過激派によるテロ組織も、もとをたどれば第一次世界大戦中にイギリスによる外交政策でとしておこなった「三枚舌外交」と呼ばれるものが原因ではないかと言われています。
そして、三枚舌外交がおこなわれた第一次世界大戦勃発のきっかけとなった「サラエボ事件」とは、どういった背景で発生したのかをみていきましょう。
ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の密約
1878年に、ロシア帝国とオスマン帝国(現在のトルコ)とのあいだで起こった戦争(露土戦争)の講和条約として2国間で「サン・ステファノ条約」が結ばれました。
この条約によって、オスマン帝国が支配していた一部の地域がロシア帝国に割譲され、ルーマニアやセルビアやモンテネグロの独立が承認され、ブルガリアやボスニア・ヘルツェゴビナには自治権が付与されたのです。
しかし、この2国間条約をそのまま履行することになれば、ロシアの勢力圏は大きく広がりますし、列強国の合意なしに独立や自治権を与えられた諸国が誕生することは、新たな戦争を招く危険があることから、ベルリンに欧州列強国の代表が集まって話しあいの場をもち、サン・ステファノ条約を修正した「ベルリン条約」を結ぶことになったのです。
このベルリン条約では、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立は、そのまま承認されましたが、その後に大きな影響を与えた修正点がありました。
それは、サン・ステファノ条約では自治権が付与されることになっていたボスニアとヘルツェゴヴィナを、オーストリア=ハンガリー帝国が占領することになったことです。
これは露土戦争時のオーストリアとロシアの間の密約に基づいておこなわれたもので、ロシアはオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領するのを容認し、引き替えにオーストリアは中立を維持するというものでした。
こうして、ボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアが占領したのですが、1908年にオスマン帝国で「青年トルコ革命」が勃発すると、革命により民族意識が高まりボスニア・ヘルツェゴビナへオスマン帝国の影響力が再び浸透することを恐れたオーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると宣言しました。
1908年オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合宣言
オーストリアによる併合宣言は、かつての宗主国であるオスマン帝国は事前に承諾していたので、併合自体は平和的におこなわれましたし、また1878年以降オーストリアの行政下に置かれていた住民にとって大きな変更は生じませんでした。
そして、一番の懸念はロシアの反応だったのですが、これも事前に密約としてオーストリアがロシアのボスポラスとダーダネルスの両海峡の通航権を保障したため、問題は生じませんでした。
しかし、この併合宣言にたいして、セルビアやモンテネグロは猛反発をします。また、密約でオーストリアが承認していたロシアの海峡通航権を、イギリスとフランスは承認しませんでした。
こうして海峡通航権を得られなかったロシアでは、同盟国でもあるセルビアにたいして同情的な世論が高まったこともあり、オーストリアにたいして強硬な態度をとるようになっていき、それまで矛盾をはらみつつも何とか機能していたバルカンをめぐるロシアとオーストリアの協調関係は決定的に崩壊してしまいました。
結局、セルビア側には主権を侵害されたオスマン帝国やフランス、ロシアが加わることとなり、併合宣言後の約半年間にわたって開戦が危ぶまれる外交危機が続きましたが、オーストリアは戦争準備が不十分だったので、同盟国のドイツが各国に圧力をかけ、戦争は回避され、セルビアも渋々ながら併合を承認したのです。
しかし、各国とも思惑も違いますし、遺恨を残す形での併合となりましたので、1914年の6月にはオーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻が、ボスニア・ヘルツェゴビナ領のサラエボを訪問した際に、大セルビア主義を掲げるテロ組織「黒手組」の6人の暗殺者(このうち5人はボスニア系セルビア人)によって、暗殺される事件(サラエボ事件)が発生してしまいます。
そして、このサラエボ事件が発端となって、人類史上初の世界大戦である「第一次世界大戦」が勃発してしまいました。
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