今日は、第一次世界大戦後の、日本についてかきますね。
第一次世界大戦終戦後の「日本」
大戦景気
第一次世界大戦に、連合国として参戦していた日本は、5大国の一員として「パリ講和会議」に参加しました。
そして、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で結ばれた「ヴェルサイユ条約」にて、ドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道より北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けました。
さらには、第一次世界大戦後に発足した国際機関である「国際連盟」の常任理事国にもなりました。
日本は、この戦争では本土を攻められていません。そして、当時から世界有数の工業国となっていたので、連合国側への軍事物資などの輸出で、大儲けしていました。この頃に「成金」という言葉が、一般的になったそうです。
工業製品などを輸出できる国は、自国が攻撃されない戦争に関わると、戦争景気の恩恵をうけれます。
日本ではこのWW1以外にも「1894年~1895年の日清戦争」「1931年~1933年の満州事変」「1950年~1953年の朝鮮戦争」などでも、好景気となりました。
「満州事変」での好景気では、世界恐慌をいち早く脱出することができましたし、「朝鮮戦争」での好景気では、WW2の敗戦から経済復興する大きなきっかけとなりました。
日本以外にも、アメリカでは「WW1」の戦中・戦後は「狂騒の20年代」といわれるバブルがやってきましたし、「WW2」では「世界恐慌」から完全復活しました。韓国でも「漢江の奇跡」と呼ばれる経済復興が、ベトナム戦争での特需と、日韓基本条約の影響でおこりました。
このように、良いか・悪いかは置いといて、自国が戦地とならずに、交戦国(勝利する方)に軍事物資などを輸出できると、戦争では、ほぼ確実に好景気が訪れます。
日英同盟破棄
1923年に、イギリスの外相アーサー・バルフォアは日英同盟について「継続はアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける」を告白しています。
アメリカは、満州の利権が欲しかったので、日露戦争(朝鮮半島と満州の権益をめぐる争い)では、日本に資金援助していました。
そして1905年「日露講和条約(ポーツマス条約)」締結後、アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンは、日本がロシアから得た権益のうち、新京(長春)から大連間を走る鉄道(南満州鉄道)の共同経営を、1億円の財政援助とセットにして持ちかけてきました。
1903年の国家予算が約2億6千万円という時代の1億円です。このハリマンの提案を、首相の桂太郎は、歓迎して受け入れました。
ところが、ハリマンとすれ違いに帰国した外相・小村寿太郎は、これを聞いて仰天しました。そして、「日米共同管理」に猛反対したのです。
小村寿太郎外相は、桂太郎首相に「南満州鉄道は、日露戦争で何万人という日本人の命、さらに多額の戦費の引き替えに得たものである。それをアメリカと分け合うとは、一体何を考えているのだ!」と訴えました。
この訴えを聞き入れ、桂首相は小村外相の言い分に従うのですが、突然の破棄にハリマンの怒りはとんでもないことになってしまいました。
これ以降、日米関係は対立を深めていきます。
そして、アメリカの強い要請に応じるかたちで実現したのが、1923年の「日英同盟破棄」です。
この1923年、イギリスはWW1で多額の債務を、アメリカに対して背負っていたときですので、わからなくもないですが、あまりに一方的ですね。
もしも、満州南鉄道の共同経営の話にのっていたら・・・とかも思いますが、WW2後に、アメリカとイギリスがイランの石油利権に対して、好き勝手にやってたことを考えると、どっちが正しい判断だったのかは、難しいですね。
アメリカとの対立
日本が「パリ講和会議」の国際連盟委員会で提案した「人種的差別撤廃提案」には、アメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンが猛反対します。「事が重要なだけに、全員一致で無ければ可決されない」と言って否決したのですが、これは「国際連盟規約」に明記するための提案です。
アメリカはモンロー主義(孤立主義)によって、国際連盟には加盟していませんので、関係ないのです。
1924年7月、アメリカで「排日移民法(ジョンソン=リード法)」が施行されました。
これは、各国からの移民の年間受入数に上限を設けたものですが、アジア出身者については全面的に移民を拒否するという条項が入っていました。
当時、アジアからの移民の大半を占めていたのは、日本人でした。そしてこれは、アメリカ政府に対し、日系人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えました。
1931年の満州事変以来、日本の中国進出が進み、1937年に日中戦争がはじまるとさらにその支配圏は、満州のみとどまらず、中国本土に拡大されていきました。
日本は、軍事的必要性を理由にして、第三国の貿易・旅行の自由を制限し、華北・華中でも独占的な経済支配をおこなっていました。
これに対してアメリカは、日本が中国における「アメリカの通商権益」を妨げているとして、日本に対して「日米通商航海条約」の破棄を通告しました。
これを簡単に言い換えますと「資源に乏しい日本に、ガソリンや鉄など戦争継続に必要な物資の輸出を禁止」ということになり、日本の弱体化を狙った一方的な条約破棄です。
たしかに、日本は満州事変から日中戦争へと、中国での侵略を広げていってましたが、ヨーロッパの強国も中国に軍を常駐させてましたけど・・・それは良いのかと疑問をもちます。
アメリカは、中国への進出をしたいのに、日本が邪魔してるのが気に入らなかったのでしょう。
日本は、もちろん欧米の帝国主義列強国のように、領土を拡大したかったでしょうが、欧米列強国のアジア侵略を止めたかったのもあります。
この当時は、現代とは全く違う世の中です。欧米列強国のアジア進出を止めるには、それに対抗する国家でなければ無理だったのです。しかし、当時のアジアには、そんな国は日本しかありませんでした。
インドはイギリスに、マレーシアはオランダに、カンボジアやラオスはフランスに植民地化されていってたのが現実です。
ハルノート登場
こうしてアメリカは、欧米列強国のアジア・中国進出は見逃すが、日本のこれ以上の進出は認めない!どころか、戦争回避のために継続していた、日米交渉の途中で突然「ハルノート」といわれる最後通告を突きつけてきます。
ハルノートとは、1941年11月26日に、アメリカのハル国務長官が示した外交文書のことです。
正式名は「合衆国及日本国間協定の基礎概略」といいます。
冒頭に「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれているとおり、これはアメリカ政府の正式な提案ではなく、あくまで覚書という性格をもつものでした。
しかし、実際は覚書などでは、ありませんでした。
翌27日には、ハリファックス駐米イギリス大使が「あまりに横暴な通知だ」とウェルズ国務次官に抗議しましたが、懐柔されました。
また29日には、カセイ駐米オーストラリア公使が、日米間の調停を申し出ましたが、ハルは外交上の段階は過ぎたと拒否しています。
ハルノートの内容
ハル四原則
(1)あらゆる国家の領土保全と主権を侵害してはならないこと。
(2)他国の国内問題に関与してはならないこと。
(3)通商上の機会や待遇で平等を守ること。
(4)紛争を防止し平和的な解決ができるように、国際協力をすること。
第2項(10項目)
(1)日本・アメリカ・イギリス・ソ連・オランダ・中国・タイの間での相互不可侵条約を締結すること。
(2)日本・アメリカ・イギリス・オランダ・中国・タイの間で、フランス領インドシナの不可侵と、フランス領インドシナにおける経済上の平等待遇に関して、協定を締結すること。
(3)中国・フランス領インドシナから日本軍を撤収させること。
(4)日本が蒋介石率いる国民政府以外の政権を支持しないよう確約すること。
(5)中国における治外法権と租界を放棄すること。
(6)最恵国待遇を基礎とする日米間通商協定を締結すること。
(7)日米が経済制裁のため相互に行っていた資産の凍結を解除すること。
(8)円・ドル為替を安定させること。
(9)日独伊三国軍事同盟を実質的に破棄すること。
(10)日米両国がこの協定内容を推進すること。
ザックリ重要ポイントをまとめますと、
「日本の本土以外で獲得した領土はすぐに返還して、ドイツ・イタリアと結んだ三国同盟からは脱退し、中国政府は蔣介石の国民政府だけを認めなさい」ということでした。
これが、まかり通るのなら、欧米諸国も植民地を解放しなければおかしいですし、アメリカなんか、アメリカ大陸から出ていかなきゃいけなくなりますよ。
そして、この最後通告ともいえる「ハルノート」を受けとった日本は、御前会議にてアメリカとの戦争を決断しました。
ハルノートへのコメントや評価
●日本側は、ハルノートが最後通牒だと確認し、12月1日御前会議にて誰からの異論もなく、天皇も異議を唱えなかった(聖断を下した)。
この時天皇が戦争を抑えたら、内乱になり、皇室の一大危機になっていただろう。それはよいとしても、結局は戦争になっていただろう。(天皇回顧)
《田原総一朗 「日本の戦争」》
●アメリカ歴史学会会長、チャールズ・ビアード博士は、著書『ルーズベルトの責任』でルーズベルトには日米開戦の責任があると明確にした。
たとえば、1941年11月26日に、ハル国務長官が日本に提示した10項目の要求、通称「ハルノート」についてこう書いた。
「1900年以来、アメリカのとったいかなる対日外交手段に比べても、先例をみないほど強硬な要求であり、どんなに極端な帝国主義者であろうと、こうした方針を日本との外交政策に採用しなかった」
●東京裁判でただ一人、戦犯とされた日本人全員の無罪を主張した、インドのラダ・ビノード・パール博士は、ハルノートを「外交上の暴挙」と喝破した。
●ハーバート・フーバー大統領は『裏切られた自由』のなかで、ハルノートを日本に手交する前日、11月25日に、ルーズベルトはハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官らを招集した。その会議でルーズベルトは「問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが」と語っていた、とかいています。
というふうなところで、今回に記事はおわりにしておきます。
読んでいただいた方々、ありがとうございました。ちなみにですが、私は反米主義者ではないですよ。
「歴史やルールは戦勝者がきめる!」という現実容認主義者です。