前回は「世界恐慌解説」についての記事を書きました。
今回は、「ナチスの台頭」についての解説記事を書いていきます。この「世界恐慌」と「ナチス」というワードは「第二次世界大戦」の開戦にとって、とても重要なことですので、つまらないかもしれませんが、ガマンしてお付き合いしてくださいね。
この記事の目次
ナチスとは?
1919年の6月28日にヴェルサイユ条約への署名がおこなわれました。
ナチスは、こうして「第一次世界大戦」の敗戦をうけて、1920年の2月、ドイツで成立した極右政党です。
「ナチス」や「ナチ」という呼び名
日本語訳した党名は「国家社会主義ドイツ労働者党」です。これだと、とても長くて言いにくいので「ナチス」や「ナチ」と略してよんでいます。
ナチスやナチの呼び名は、国家社会主義を意味するドイツ語「Nationalsozialist」からきていまして、これはワイマール共和政時代(第一次世界大戦終戦後)に、対立する党が名づけた「蔑称(馬鹿にしたり、差別的な呼び名)」です。
だから、私たちは「ナチス」や「ナチ」という呼び名を使いますが、ナチの党員が自分たちのことを「ナチス」や「ナチ」とは呼びませんでした。ナチの党員は、ドイツ語党名の略称で「NSDAP」と呼んでいたそうです。
正式なドイツ名は「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」です。
ナチスドイツがでてきた時代
とてつもない賠償金
第一次世界大戦で敗戦したドイツ(当時はワイマール共和政)は、1919年6月のヴェルサイユ条約で、領土や軍備を奪われ、1921年3月のロンドン会議では、とんでもない額(純金ベースで4万7256トン、現代の貨幣価値で100兆円以上とも200兆円以上ともいわれる額)の戦後賠償金の支払いを決定されていました。
支払いは、毎年20億マルクと輸出額の26%を30年間支払うといった方式で、戦勝国によって決められました。
※純金ベースで4万7256トンと書きましたが、これまで人類が採掘してきた金の総量は約18万トンです。
ハイパーインフレーションが発生
ヴェルサイユ条約とロンドン会議による戦後賠償は、完全にドイツの支払い能力を超えていました。
そのため、賠償金の支払いは滞りがちになります。
(パリ講和会議のときから、ドイツに対して強硬姿勢で挑んでいた)フランスは「ドイツは、わざと支払いを遅らせている、これは連合国への反抗だ」とし、石炭やコークス・木材などの物資を接収して賠償にあてるため、1923年1月11日から、ベルギーとともにドイツ屈指の工業地帯であるルール地方の占領を開始しました。
ルール占領をされたことでドイツは、さらに経済的に大ピンチとなります。以前から進行していたインフレは、ハイパーインフレーションとなり、天文学的な規模になってしまいます(通貨供給量は大戦前の2000倍に増加し、一般物価水準は25000倍を超えました)。
ドイツ国内では、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となり経済が破綻してしまいました。
パン1個が、1兆マルクとなるほどの状況となり、100兆マルク紙幣も発行されるほどになりました。
このため、この時期のマルクは「パピエルマルク(紙屑のマルク)」と呼ばれました。
紙幣が額面ではなく、重さで取引(事実上秤量貨幣化)されたり、紙幣の印刷を急ぐために片面だけの印刷にしたり、すでに流通している紙幣の額面を、証紙やゴム印などで修正したりするなど、通常の状態では考えられないような事態が発生していました。
もちろんインフレーションは、ヴェルサイユ条約以前から始まっていましたが、これがハイパーインフレーションとなる決定的要因は、イギリスなどの猛反対を無視して開始された、「フランスによるルール占領」にあったことは間違いないでしょう。
ということで、この「ルール占領」によって、戦勝国各国は、以前より賠償金を受け取れなくなってしまいました。
レンテンマルクの奇跡
こうした、ハイパーインフレを止めるために、銀行家ヒャルマル・シャハトがライヒ通貨委員となって、通貨「レンテンマルク」の発行を主導しました。
そして旧来の「1兆マルク」を「1レンテンマルク」と交換させるデノミネーションをおこないました。
レンテンマルクの特徴は、金や銀の代わりにドイツの土地を、その価値の裏付けにしたことです
つまり、自国の土地の価格と、連動する通貨を発行したということです。
土地を担保にすることで、通貨に対する信用を取り戻すことができました。また同時に公務員の削減等、財政再建にも取り組んだドイツ政府は信頼を取り戻し、インフレの劇的な沈静化に成功しました。
こうしてハイパーインフレーションを見事に沈めた、ヒャルマル・シャハトは、1930年頃から本格的にナチ党に接近していきました(正式な入党は1937年です)。アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」にも強い感銘を受けます。
そしてシャハトは、ナチス政権下の経済政策を支え、40%もあった失業率を、ほぼ完全雇用水準にするということを成し遂げました。
背後のひと突き
「背後のひと突き」とは「ドイツは戦場で負けたのではなく、社会民主党やユダヤ人など、暴利をむさぼる国内の裏切り者によって負けた」というものです。
この「背後のひと突き論」は、1919年に開かれた、ドイツの敗戦の原因を調査する調査委員会での、ヒンデンブルク元参謀総長(タンネンベルクの戦いを勝利した英雄)の発言が、発端となっています。
これは「第一次世界大戦におけるドイツの敗因は、軍事的作戦による失敗ではなく、革命後に政権を主導した社会民主党や、革命を扇動していた共産主義者らに求められるべきである」といったものです。
この「背後のひと突き論」が、広く受け入れられたのには理由があります。
大半のドイツ国民は、第一次世界大戦に敗戦する半年くらい前まで、戦局を有利にすすめていると思っていました。
東部戦線ではロシアが革命によって崩壊し、ドイツ軍は西部戦線(フランス)に軍隊をフル動員し、パリまでもう少しのところまで迫っていってたと思っていたのです(実際は膠着状態が長期にわたって続いてました)。
というわけで、敗戦後のドイツ国内では、被害が限定的(戦場はほとんど国外)だったこともあり、国民としては、なぜ負けたのか分からない、といった状況でした。
そうした背景があったなかで、第一次世界大戦連合国との休戦協定に調印した、マティアス・エルツベルガーが暗殺されます。
そして、ドイツ国大統領(ワイマール共和政初代大統領)フリードリヒ・エーベルトが裁判所において「国家反逆罪」を犯したと認定されました。さらには共和政そのものへの不信感が強まっていき、ナチスは国民からの支持を集めていくことになりました。
ナチスは「背後からの一突き」を公的な「第一次世界大戦観」として採用し、アドルフ・ヒトラーが政権を獲得するのにも一役買うことになりました。
アドルフ・ヒトラーの台頭
ドイツ労働者党(ナチ党の前身)への入党
ヒトラーが、元々ドイツ労働者党に接近したのは、上官であったカール・マイヤー大尉(ドイツの軍人・政治活動家)にスパイ活動を命じられたためでした。
このため1919年9月12日に、ドイツ労働者党がミュンヘン中心部にある酒場「シュテルンエッカー・ブロイ」で開いた集会に、参加していたヒトラーは、ドイツ統一主義者の立場として、バイエルン独立論者アダルベルト・バウマン教授と激論しました(この場にいたルドルフ・ヘス(ナチス副総統)は、ここでヒトラーに感銘を受けました)。
これをきっかけに(ドイツ労働者党共同設立者)ドレクスラーから注目され、ドイツ労働者党から「入党許可状」付きのはがきが送られてきました。
そこには9月16日に、ヘーレン通りにあるレストラン「アルテス・ローゼンバート」で開催される党委員会に出席してほしいと要請がありました。「我が闘争」の中でのヒトラーの主張によれば、この党委員会に出席した後に、ヒトラーはこの党のために活動することを決心したということです。
そして、マイヤー大尉の許可を得て、10月19日にドイツ労働者党へ入党しました。
アドルフ・ヒトラー党首誕生
ヒトラーは、1919年の10月に、ドイツ労働者党に入党後から精力的に活動しました。
ヒトラーの巧みな演説が、人気となっていき、党勢力拡大へとつながっていきます。そして幹部連中からの支持もあり、ヒトラーの党内での地位は上昇していきました。
12月11日、ヒトラーはドイツ労働者党の党改革案を提出しました。
こうしてヒトラーは「党委員会は公開の党員集会で選出されること」また「党委員会は党綱領にのみ従い、トゥーレ協会(ドイツ労働者党の母体の秘密結社)から完全独立した委員会になること」を要求しました。これに対して、トゥーレ協会員で党を「超国家主義・反ユダヤ主義」を育てる秘密政治サークルに、とどめようとしていたハラー議長(ドイツ労働者党共同設立者)は、これに怒ってヒトラーと対立しましたが、結局ハラーが敗れ、翌1920年1月にハラーは党を出ていくことになったのです。
これにともない、トゥーレ協会とは決別し、ドレクスラーが新党首、ヒトラーは第一宣伝部長になりました。
そして、党名が「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」へと変更されました。
この頃には、のちに「突撃隊」へと発展する、会場警備隊が党の一機関であることを正式に決定したり、「ハーケンクロイツ」を党のシンボルに採用したりしています。
そして、党の「25カ条綱領」を完成させました。この綱領は、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義、企業の国有化、利子制度打破などが主張されていました。
1920年8月に、ナチ党は、オーストリアの政党(オーストリアのドイツ国家社会主義労働者党)と共同大会を開きました。
ここでドレクスラーは、ナチ党とオーストリアの党の、統一に賛成しました。しかし、ヒトラーは反対します。
これは、当時の「オーストリアのドイツ国家社会主義労働者党」は革命ではなく、議会によって変革することを目指していたので、議会政治に参加していました。ドレクスラーが目指すのも議会政党でしたが、当時のヒトラーは、革命主義者で、議会政治への参加に反対していたためです。
さらに、1921年3月26日から28日にかけてのツァイクでの大会において、ドレクスラーとドイツ社会党のアルフレート・ブルンナーが、党を合同させようとしたときにも、ヒトラーが反対しました。
これは、ヒトラーは、他の国家社会主義政党とでは、原則的にも戦術的にも相いれないため、統一をして規模が拡大したとしても、内部的団結や闘争能力は弱まると考えたためです。
こうして、ヒトラーとドレクスラーは対立を深めていきました。
1921年6月から7月にヒトラーは資金集めのために、ベルリンに滞在していました。
この隙をついて、ドレクスラーと反ヒトラー派のナチ党幹部たちが、ヒトラーが反対していた「ドイツ社会党」との連携を模索しました。この動きを知ったヒトラーは、7月10日にミュンヘンへ戻り、11日に党委員会に宛てて、離党の手紙を書きました。
この行動は、ナチ党指導部には想定外のことでした。ヒトラーを失うか、自分たちが退陣するかの選択を迫られたのです。
さらにヒトラーは、7月14日に自分が再入党するならば条件として、現党委員会の即時辞職と独裁権限を持った議長の地位を要求しました。
ヒトラーには「ナチ党で一番人気があり、一番聴衆を集められる、自分抜きでは党は立ちいかない」という自負がありました。7月15日にナチ党委員会は、ヒトラーの要求を受け入れました。
そして、7月29日にホフブロイハウスで開かれた、ナチ党の臨時大会で554名中553名の支持を得てヒトラーが議長に選出され、ドレクスラーは名誉議長に棚上げされました。
ミュンヘン一揆(ヒトラー一揆)
これは、先ほども書きました、フランスによる「ルール占領」がきっかけとなりました。
フランスの「ルール占領(1923年1月)」に対し、ドイツ側は強硬姿勢にはでず、弱腰外交で対抗しました。
それは、ルール地方の労働者にストライキやサボタージュを呼びかけ、賃金を保証するために、紙幣を増刷しました(ハイパーインフレーションへの引き金です)。
1923年8月13日「ルールへの対応」の失敗と「インフレ」の責任を取り、ヴィルヘルム・クーノ内閣は辞職し、グスタフ・シュトレーゼマンが新首相となりました。
こうしたなか、バイエルン州ミュンヘンでは「11月革命(ドイツ革命)という屈辱の精算」というスローガンが叫ばれ、政治的変革への気運が高まっていきます。
9月26日、エーベルト(ワイマール共和政初代大統領)は、消極的抵抗(ストライキやサボタージュ)の中止と、全ドイツへの非常事態宣言を布告する予定でしたが、これより先にの9月20日に、バイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングが閣議をおこなって、バイエルン州内に非常事態を宣言し、カール州総督を任命して独裁的権限を与えました。こうして(ワイマール共和政の)中央政府ベルリンとバイエルン州の関係は悪化していきました。
9月27日には、ナチ党が機関紙にて、シュトレーゼマンと軍総司令官ゼークトを批判しました。
カール州総督も右派の指導者であり、ベルリンに進撃し中央政府を倒すことを考えていました。
そこでヒトラーは、主導権を握るために、当時ミュンヘンにいた第一次世界大戦の英雄ルーデンドルフ将軍に近づきました。そして、右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟」を結成し、実質的な指揮権はヒトラーが掌握しましたが、ルーデンドルフを同団体の名誉総裁に就任させたのです。
1923年11月、ヒトラーはドイツ闘争連盟を指揮して、カール州総督とバイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将と州警察長官のハンス・フォン・ザイサー大佐の3名に「ベルリン進軍」を迫るため、ミュンヘン一揆を起こす計画を伝えました。
一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカール州総督が演説中の「ビュルガーブロイケラー」を占拠したと聞いたルーデンドルフはここに駆け付けます。
ヒトラーの一揆協力要請に、カール州総督、ロッソウ少将、ザイサー大佐らは渋りましたが、ルーデンドルフの説得を受けると、まず軍人のロッソウ少将が協力を申し出ました。次に警察のザイサー大佐もこれに従いました。文官出身のカール州総督だけは、その後もしばらく渋っていましたが、最後はカール州総督も協力することを表明しました。
しかしヒトラーは、その場をルーデンドルフに任せて「ビュルガーブロイケラー」を一時離れてしまいました。
その場を任されたルーデンドルフは、ロッソウ少将の言葉を信じて、彼に外へ出る許可を与えました。ついでカール州総督と、ザイサー大佐にも、外へ出る許可を与えた。
そしてヒトラーは、戻ってきましたが、カール州総督やロッソウ少将たちがいないのに、びっくりします。そこでヒトラーは、3名を解放したルーデンドルフを非難しましたが、ルーデンドルフは、元下級兵士(この場のヒトラー)を冷ややかな目で見ると「ドイツ軍将校は誓いを破らない」と言い返したといいいます。しかしこの後、ロッソウ少将は一揆の鎮圧命令を発しています。
これを聞いたルーデンドルフは「私はドイツ軍将校の誓いを二度と信用できない」と述べて意気消沈してしまったということです。
11月9日の朝、ルーデンドルフとヒトラーは、ナチ党員を率いて、ミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始しました。
並びは、ヒトラーを中心にして、左にルーデンドルフ、右にナチ党幹部マックス(ミュンヘン一揆の行動計画策定者)が先頭に並び、3人は腕を組んでいました。
それは、ヒトラーもルーデンドルフも「一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまい」という考えがあったためです。
しかしバイエルン警官隊は、彼らに向けて発砲しました。この予想外の銃撃に、ナチ党員たちの一団は総崩れとなり、撤退しました。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されています。そして、マックスは胸に銃弾をうけて即死、ヒトラーは逃亡しました。
ちなみにヒトラーは、マックスの死を「取り返しのつかない損失」と嘆いています。
11月11日に、ヒトラーは逮捕されました。
逮捕後のヒトラー
収監後は、しばらくは虚脱状態となり、絶食したそうです。失意のヒトラーを、ヘレーネ(潜伏先だったエルンスト・ハンフシュテングルの妻)やドレクスラー(元ナチ党の党首)ら複数の人物が激励したと言われています。
裁判でのヒトラーは、自信を取り戻していました。
弁解をせず「一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる」戦術を取ります。それが功を奏し、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになっていきました。
なんと、花束を持った女性の支持者が連日留置場に押しかけたり、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者まで現れたそうです。
司法の側もヒトラーに極めて同情的であり、主任検事が起訴状で「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」と評するほどでした。
1924年4月1日、ヒトラーは、禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されますが、所内では特別待遇を受けれました。
そして、この年の12月20日には、釈放されました。
ナチス再建
逮捕から1年とちょっとで戻ってきたヒトラーは、1925年の2月27日にナチ党の禁止が解除されたので、党の再建にのりだします。しかし大規模集会を開き、政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下されました。
この期間にヒトラーは、ミュンヘンの派閥をまとめたり、執筆作業をして「我が闘争」第一巻の発売をおこなったりしました。
そして、この年の秋頃には、ナチ党内の左派勢力(ドイツ北部のナチス)をうまく取り込むことに成功し、のちの宣伝相ゲッペルス(当時は北部派シュトラッサーの秘書)もヒトラーに信服するようになっていきました。
1929年に世界恐慌が起こります。そして、急速に景気が悪化していき、街には大量の失業者が溢れ、中央政府(ドイツ社会民主党)に対する不満は、爆発寸前まで高まっていきました。
そうした社会の流れに乗り、1930年の国会議員選挙でナチ党は、107議席18%の得票を獲得します。これは、ドイツ社会民主党の24.5%に次ぐ、第2位の得票率でした。
これ以降は、ヒンデンブルク大統領に近づいたり、批判したりをしながら、国民からの支持を手に入れていきます。
敗れはしましたが1932年の大統領選挙では、ヒンデンブルクが53%、ヒトラーが37%と健闘を見せ、ナチ党やヒトラーは無視できないほど、大きな存在感を発揮するようになっていってました。
ヒトラー首相誕生
1933年1月28日に総辞職したシュライヒャー首相の後に、ヒンデンブルク大統領によって、アドルフ・ヒトラーが首相に指名されました。
これは、パーペン( 元首相 ドイツ国家人民党)、オスカー(ヒンデンブルク大統領の息子)、マイスナー(大統領府長官)が、ヒトラーを猛プッシュしたせいだと、いわれています。そしてパーペンは「ヒトラーの力は自分たちで封じ込めれるし、ただ首相に雇っただけだ」と述べたそうです。
1933年1月30日、大統領官邸に新内閣の首脳が集まりました。そして、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、ドイツ国家人民党、鉄兜団(退役軍人の組織)の連立内閣、ヒトラー内閣が誕生しました。
ヒトラーは首相に就任、副首相にドイツ国家人民党のパーペンが就任しました。
そしてヒトラーは、就任後すぐに閣僚に対して「共産党を禁止すればゼネストとなり軍の動員となるが、それは避けたい、最善の策は国会を解散し、次の選挙で政府が過半数をとることだ」と主張し、選挙の必要性を訴えかけました。そしてこれは、国民による新政権の承認の必要性ということから、ヒンデンブルク大統領とパーペン副首相から了解されました。
これには、理由があります。一つは共産党の勢力を激減させることです。このあとに詳しく書きますが、ヒトラーには、正々堂々と選挙戦を戦うつもりなんてありませんでした。
もう一つは、ヒトラーに組閣の権利が与えられなかったためです。このヒトラー内閣に、入閣できたナチ党員は、わずか2名でした。
一人はヴィルヘルム・フリック内務大臣ですが、警察の管理権は与えられませんでした。
もう一人は、ヘルマン・ゲーリング(第一次世界大戦のエースパイロット)でしたが、こちらは無任所大臣でした。
このためヒトラーは、選挙で大勝利して、国民の圧倒的な支持をバックに実権を手に入れたかったのです。
この時に、パーペン副首相は「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と周囲に語っていました。
ナチ党最後の選挙
1933年2月1日選挙戦がスタートしました。
ヒトラーはラジオ演説で「1919年のドイツ革命からの14年間、共産主義によってドイツ国民は汚染され、このままではドイツは崩壊する」と警告し、経済政策によって苦境を克服すると述べました。
そしてヒトラーは「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を発効させます。
これにより、敵対勢力のメディアや集会を押さえ込むという作戦にでました。しかも、ナチ党員は、街に繰り出して行進しました。夜には、ゲッベルスの演出で、たいまつを持った突撃隊員が大行進をおこないました。
1933年2月6日、以前から中央政府やナチ党に反発していた、プロイセン州政府に対して秩序確立のための大統領令を発令し、プロイセン州を国家弁務官となるパーペンの指揮下に置きました。
プロイセン州はドイツ全土の3分の2を占めていて、首都ベルリンも含んでいましたから、パーペンはこの州の政府を掌握することによって、自分の権力が確固たるものとなったと考えてました。
しかしこの時、ヒトラーはパーペンに要求して、プロイセン州の内相にゲーリングを就任させることに成功しました。州の内務省は、その州の警察の権限を有していたので、これにより、ドイツ国内で最強のプロイセン州警察が、中央政府では無任所大臣にすぎなかった、ゲーリングの手中に握られることになりました。
そして、ゲーリングプロイセン州内相は、警察幹部をすぐにとりかえ、共産党に対する弾圧を開始しました。
2月24日には、共産党本部をプロイセン州警察が捜索し「共産党叛乱の計画書」を発見したと発表します。これを先例として、国家弁務官は他の州にも相次いで置かれいき、州の独立は失われていきました。
1933年2月27日の夜、国会議事堂が炎上しました。現場では一人の男、元オランダ共産党員で、国際共産主義グループ (IKG)に所属する、マリヌス・ファン・デア・ルッベが逮捕されました。
この事件の調査をしたプロイセン州政治警察局は、ルッベの単独犯行であると見ていました。
しかし、ナチ党は共産党による組織的暴動とみなし、大弾圧を開始します。4月までにプロイセンだけで約2万5000人が拘禁されました。
さらに、2人の共産党議員が、この放火事件に関わっているとして、この日のうちに、国会と地方の共産党議員、および公務員への逮捕命令が出され、共産党系新聞はすべて発行停止となりました。
こうして、共産党勢力に大打撃を与えつつ、ゲッベルスの指揮するナチ党は、財界から得た圧倒的な資金力と国家権力を使い、大規模な宣伝活動をおこない続けました。
党の主要な演説は、ラジオ放送と街頭に設置されたスピーカーから流しました。突撃隊の暴力は警察によって見逃されました。
投票日の前日は「目覚める国民の日」と名付けられ、投票を促すキャンペーンがおこなわれました。
そして3月5日に投票が行われ、結果はナチ党が288議席を獲得しました。ナチ党の得票率は43.9%であって単独過半数には届かなかったのですが、連立相手である国家人民党(右派政党)の52議席を合わせれば340議席となり、過半数を越えました。共産党は票を大幅に減らしたものの、81議席を獲得しました。
アドルフ・ヒトラーの独裁
全権委任法
首相就任以前からヒトラーは、政権を握った場合、自らに独裁権を与えることを主張していました。
1933年3月7日、ヒトラーは閣議において選挙結果は「革命であった」と宣言をして、当初から予定されていた憲法の枠内に収まる全権委任法ではなく、憲法そのものを覆す包括的授権法であることを明らかにしました。
当時のドイツでは、憲法改正的な法律を通過させるためには、国会において議員定数3分の2以上が出席して、そしてその3分の2以上の賛成が必要とされました。
この法案を可決させるにあたってヒトラーはこう述べています「共産党の議員はライヒスターク(ドイツ国会)開会の際に姿を見せることは無いであろう。それというのも、彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているであろうから。」
3月9日には、レーム突撃幕僚長が、突撃隊を引き連れてバイエルン州首相官邸に押しかけ、州首相ハインリヒ・ヘルトに辞職を要求しました。ヘルトはヒンデンブルク大統領に救援を求めましたが、「ヒトラー首相と相談せよ」という返事がかえってきました。
これにより、ドイツのすべての州が政府の統治下(事実上はナチスの統治下)に置かれ、州政府による自治は終わりをむかえました。
3月15日には、閣議で内相フリックが全権委任法の具体的な案を提示しました。
議案の内容は政府に国会や憲法に制約されない幅広い権限を授与するものでした。さらに「議長は許可を得ず欠席した議員を排除できる」「自己の責任によらず欠席した議員は、出席したものとみなされる。排除された議員も出席したものとみなされる」という議院運営規則の修正案を出しました。
パーペン副首相やフーゲンベルク(経済大臣兼食料農業大臣)は国会を国民議会にし、新たな憲法作成の可能性を盛り込ませる事で、権限を制限しようとしましたが一蹴されてしまい、全員一致で承認せざるをえなくなりました。
3月21日には、新国会の開会記念式典がおこなわれ「国民高揚の日」と名付け祝日にしました。
ここでヒトラーは、政界財界の大物や旧ドイツ帝国の皇族たちの前で演説をおこないました。この演説でヒンデンブルク大統領は涙を浮かべていたと、ゲッベルスが日記に記しています。
この日の午後には、国会に全権委任法法案と議院運営規則改正案が提出されました。また「国民高揚の政府に対する卑劣な攻撃の防衛のための大統領令」が制定され、これにより「政府と政府を支持する政党」に反対する「虚偽の宣伝」をおこなうことが禁止されました。
採決では、閣議でのヒトラーの言葉通りに、共産党議員81人全員、そして社会民主党議員26人、中央党・ドイツ人民党議員がそれぞれ1人欠席しました。「議院運営規則改正案」は起立多数で通過しました。
「全権委任法法案」に対して社会民主党は批判しましたが、他の保守派は左翼を撲滅したいと願っていたため賛成にまわりました。
こうしてヒトラーは、大統領の意志に左右されることなく、権力をふるえる授権法の1種である「国民および国家の苦境除去のための法(全権委任法)」を成立させたのです。
ユダヤ人への迫害
ヨーロッパでは中世頃から、ユダヤ人にたいする差別意識がありました。
ヨーロッパはキリスト教の社会であり「イエスを十字架にかけて殺したのは、ユダヤ人である 」とキリスト教徒は伝えてきていました。「キリスト教徒のユダヤ人に対する憎悪の根拠」は、ゴルゴダの丘にあるとも言えます。
こうして宗教による差別から始まり、それはいつのまにか「白人の血を、ユダヤ人で汚すな」という人種差別問題に発展していきました。そして、ユダヤ人への職業差別もあり、工業や農業などへの就業はできず、当時は汚らわしいとされていた「お金を扱う職業に関わる者」が多かったのです。
ヒトラーは、1919年に「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」であるという手紙を残していて、その後もユダヤ人に対して差別的内容の演説をおこなっています。
ヒトラーは、第一次世界大戦敗戦の理由の一つにも、ユダヤ人の妨害があったとしていました。
ヒトラー内閣成立後の1933年3月28日には、ナチ党の各組織に、ユダヤ人に対する大規模なボイコット命令「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」をだしました。
そして4月1日から3日間にわたっておこなわれた、このボイコットでは、私服のナチ党員がユダヤ人の経営する会社や商店の営業を妨害し、店舗の破壊やユダヤ人経営者への暴行をおこないました。警察はあらかじめその場をパトロールしないように指示されていました。
4月7日には「職業官吏団再建法」が制定され、共産主義者等の左翼とあわせて、ユダヤ人を含む非アーリア人とされた人々が公職追放されました。これは、他の職業にもどんどん拡大されていき、一部のユダヤ人は国外に逃れるようになっていきました。この頃から、毎年2万人から4万人のユダヤ人が、ドイツ国外に脱出していきました。
1935年9月に制定された「ニュルンベルク法」によって、ドイツ国民であったユダヤ人は「国籍を保持するが、帝国市民(ライヒ市民)ではない」という存在となってしまい、ドイツ人および類縁の血を持つ者との婚姻と婚外交渉が禁じられました。
こうして、ユダヤ人への迫害の流れは、国家ぐるみで加速していくことになります。
1938年11月7日に、駐フランスドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートがユダヤ人青年に殺害される事件が発生します。
これにより11月9日、ユダヤ商店・百貨店、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)などが、突撃隊員たちによって破壊・略奪されました。この反ユダヤ人におこなわれた暴動は「水晶の夜」とよばれています。
11月10日には、親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが兵器および武具を持ったユダヤ人を拘束する命令を出し、11月11日にはユダヤ人の兵器所有が禁じられました。
翌12日には、ゲーリング(プロイセン州首相)が、ユダヤ人の行動制限と財産の一部(20%)没収をおこなう命令を下しました。
1939年1月24日、ゲーリング(プロイセン州首相)が、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し「ドイツ国内からのユダヤ人の国外移住を全力をもって促進すべき」として、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒの指揮下に「ユダヤ人国外移住のためのライヒ中央本部」を設置することを命じました。
ユダヤ人の財産の剥奪や移動手段の制限はこうした「移住」を効率的に実行するための措置でもありました。しかしこの頃から、ユダヤ人の移住を受け入れてきた南米諸国などの各国が、難色を示すようになっていき、第二次世界大戦の勃発はこうした移住をさらに困難なものとしていきました。
「第二次世界大戦」開戦
ポーランド侵攻
1939年4月28日、ヒトラーはドイツ帝国議会で演説をし、ドイツ・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、ポーランドに対する新たな領土要求を突きつけました。
独ソ不可侵条約
1939年8月23日に、ドイツとソ連の間に締結された不可侵条約。天敵といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えました。
侵攻開始
1939年9月1日、自由都市ダンツィヒ(現グダンスク)を親善訪問中の、ドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルスタイン号が、突如ポーランド守備隊に対して砲撃を開始しました。
ドイツは開戦の理由として、ポーランド国内でドイツ系住民が虐待されていることをあげ、その保護を掲げましたが、虐待の事実はありませんでした。
ヒトラーにとって重要だったのは、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復することであり、それによって東方への領土を拡大する意図から始めた戦争でした。これによって第二次世界大戦が始まったのです。
今回の記事のテーマは「第二次世界大戦」開戦までのドイツでした。ナチスやヒトラーがいかにして権力を握っていくのかを中心にかきましたので、戦争への過程についてはあっさりになってます。
とにもかくにも、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。