2020年、現在の北朝鮮の国家元首は、朝鮮労働党委員長の金正恩です。今回は、この金正恩(キム・ジョンウン)のおじいちゃんである、初代最高指導者、金日成(キム・イルソン)について書いていきます。

第二次世界大戦が終戦するまで

1912年4月15日に、平壌(ピョンヤン)の万景台(マンギョンデ)で、抗日シンパの家庭に長男として生まれました。そして7歳のときに、家族で南満州に移住しました。
そして14歳ごろに父を亡くしたあと、金日成は中国吉林省の中学校に通い、ここで本格的に「マルクス・レーニン主義」にふれ、強い影響をうけました。
しかし、その影響のせいで、共産主義の青年学生運動に参加したことから、中学校を退学になります。

1932年、金日成は、20歳のころに中国共産党に入党し、中国共産党指導のもと、満州で中国人と朝鮮人による抗日武装組織「東北人民革命軍」に参加します。
ここで「民生団事件(満州で抗日武装組織の朝鮮人幹部や遊撃隊員が、日本の特務スパイ組織、民生団の一員として大量に追放・粛清された事件)」が起こり、金日成も粛清の対象となりかけますが、なぜか難を逃れます。

1936年には「東北抗日聯軍」の隊員となり、抗日パルチザン(対日抵抗軍)での活動を、活発化させていきます。
そして、中国から国境を越えて、朝鮮領内の襲撃作戦を成功させたりしたので、日本軍が金日成に懸賞金をかけ、金日成の名は有名になっていきました。
このあとも、日本軍とゲリラ戦を交えますが、徐々に戦力を削られていきます。

1940年の秋ごろには、中国共産党上層部の許可をえずに、直接の上司も置き去りにして、自分の部下10数名だけを連れて、ソ連領の沿海州に逃亡しました。
ここでは、ソ連側にスパイ容疑をかけられ監禁されますが、東北抗日聯軍時代の中国人上司に、助けられ釈放されます。

こうして、なんとか生き延びた金日成は、ソ連傘下の民族旅団組織に配属され、教育と訓練をうけました。
結局は、第二次世界大戦終戦までを、ここでのんびりと過ごすことになります。

朝鮮民主主義人民共和国成立前

1945年8月、第二次世界大戦の終戦によって、朝鮮は北と南に分断されます。南がアメリカ軍が占領し、北はソ連軍が占領しました。
ソ連軍が占領した朝鮮のなかで、一番大きかった都市は平壌でした。
そして、ソ連傘下の部隊のなかで、一番階級が高かった朝鮮人が金日成大尉でした。
そのため金日成は、平壌守備隊司令官の顧問に任命され、9月19日に元山港に上陸し、帰国をはたしました。

10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」で、金日成は初めて民衆の前に姿を現しました。
この時に、金日成を紹介したソ連少将は、民衆に金日成を「国民的英雄」「勇名をはせたパルチザン指導者」として紹介しました。
一方で、金日成は、解放者としてソ連軍への支持を演説で表明します。まさにこの瞬間から、一介のソ連軍大尉が「偉大なる首領」金日成となったのです。

一部の報道では、ここで偽物の、金日成が登場したといわれています。
本物は、抗日パルチザンを指揮した、朝鮮人の英雄とされていますが、スターリンがおこなった大粛清で投獄され、1942年に獄死したそうです。
そんなスターリンですが、朝鮮に傀儡政権を樹立するために、候補者となった無名の金成柱(キム・ソンジュ)を、英雄の金日成に仕立てたそうです。
そして、1945年10月に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」で民衆の前に姿を現したのですが「若すぎる」とか「本物じゃない」などの文句を言った者は、ソ連軍によって銃殺されたと言われています。
これが、事実かどうかはわかりません。

第二次世界大戦終戦後、朝鮮人たちは分断国家を望んでいなかったので「朝鮮建国準備委員会」が9月6日に「朝鮮人民共和国」の設立を宣言し、「中央人民委員会」を中央本部として、地方に「人民委員会」を設置しました。
しかし「朝鮮人民共和国」はアメリカとソ連の、両国から承認をえられませんでした。
そして、アメリカ軍統治の南側では、人民委員会を解散させたのですが、ソ連軍統治の北側では、「ソビエト民政庁」に人民委員会を協力させるかたちで存続させます。

1946年2月に、ソ連は各地の人民委員会を、中央集権化させ「北朝鮮臨時人民委員会」を創設します。
そしてソ連は、自分たちの息がかかった、金日成を初代委員長に就任させました。

1948年8月15日に、南側で「大韓民国」が成立しました。
これにたいして北側でも、9月9日「朝鮮民主主義人民共和国」が設立され、金日成は首相に就任しました。

朝鮮民主主義人民共和国成立後

金日成は、首相就任とともに、初代最高指導者となりましたが、ソ連の圧倒的な支援を受けて、北朝鮮の指導者となっただけですので、金日成派は北朝鮮政府および、北朝鮮国内の共産主義者のなかでは、圧倒的な少数派であり、弱小勢力でした。

そんな状況でしたが、反米・共産主義の点では、まとまりをみせます。
大韓民国の李承晩(リ・ショウバン)初代大統領が、韓国国内で共産主義者にたいしての、弾圧・虐殺をおこなっていました。
金日成は、これを韓国の状況を利用して、同じく反米・共産主義のソ連と中国と了承をえて、北朝鮮の幹部をまとめあげ、1950年6月25日に「朝鮮戦争」を開始しました。

朝鮮戦争の内容についてはコチラの記事をどうぞ。

粛清のはじまり

ソ連占領後の主な派閥は以下のとおりです。

満州派
トップは金日成で、国外で抗日パルチザン闘争を展開していた、朝鮮人共産主義者たちがルーツです。
別名を、国外パルチザン派ともいいます。

甲山派
トップは朴金喆(パク・クムチョル)で、満州派と連携してパルチザン闘争をおこなっていました。国内での活動がメインだったので、国内パルチザン派とも呼ばれています。
実働部隊だけでなく、知識人や専門家も多く所属していました。

ソ連派
トップは許哥誼(ホ・ガイ)で、朝鮮系ソ連国民であり、ソ連軍人として朝鮮半島に進駐し、北朝鮮の統治機構に加わったメンバーです。

延安派
トップは金枓奉(キム・ドゥボン)で、中国の延安を拠点とし、中国共産党の指導下にあった、朝鮮独立同盟や朝鮮義勇軍を母体としているグループです。

南労党派
トップは朴憲永(パク・ホニョン)で、南朝鮮労働党の主要メンバーです。共産主義への弾圧が激しいため、北に移動し、北朝鮮労働党と合流しました。1950年4月に両党が正式合併して朝鮮労働党が成立しました。

金日成の満州派は、中国共産党のパルチザンに参加し、ソ連の支援をうけたことから、延安派とソ連派とは友好関係を築いていました。
そのため、最初の標的にされたのは、南労派でした。

北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併し「朝鮮労働党」が成立すると、朴憲永は、中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任し、その後は副首相兼外相を務めました。こうして影響力の強い南労派は、満州派とは長く対立していました。
1953年の朝鮮戦争休戦後、朴憲永など主要構成員13名がアメリカのスパイ、政府転覆の謀議、などの容疑により次々と逮捕され、死刑や投獄が言い渡されました。
1955年には朴憲永が起訴され、死刑を言い渡され、その後執行されました。なお、1953年の裁判で死刑を言い渡されていた、被告9名は朴憲永の裁判まで死刑を執行されず、朴憲永の裁判に出廷し、朴憲永に不利な証言をさせられました。

この南労派の粛清を、延安派とソ連派は黙認しましたが、1956年6月に金日成が、東欧などへ経済支援の要請のため、出国しているあいだを狙い、クーデターを計画します(というふうに、いわれています)。
金日成は、帰国後の8月30日から8月31日にかけて、朝鮮労働党中央委員会全体会議が開かれました。
ここで、延安派やソ連派の幹部たちは、金日成の個人独裁路線や重工業優先政策を批判しましたが、思うように支持をえられず(金日成はこの動きを事前に知らされていました)、逆に金日成側から党指導部に対する「宗派的陰謀」「反党的陰謀」を企てた不満勢力として処分されてしまいました。ソ連派・延安派の幹部たちは、公職から解任され党籍を剥奪されました。

建国以来つづいていた、甲山派と満州派の密接な蜜月状態も、他派閥への粛清や、政策面での食い違い、金日成体制の独裁・個人崇拝への不満をつのり、急激に悪化していきます。
1960年代半ばには「経済事業分野における中央集権的なやり方は非能率的」と経済政策を批判しましたが、満州派との党内抗争に敗れ、金日成主導で甲山派幹部の一斉粛清がなされました。
甲山派のトップで、党内序列第4位であった、朴金喆常任政治局員は、1968年に処刑されました。

1969年以降は、満州派内での粛清がはじまります。
1972年には憲法が改正され、国家主席となった、金日成の権力は拡大します。
それ以降も粛清は継続されていき、側近だけでなく、実弟や叔父の娘婿などの、身内にたいしてもおこなわれました。

こうして、逆らう者のいない「絶対権力」を手に入れた、金日成は、マルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとしている「主体思想(チュチェ思想)」を北朝鮮の公式理念としました。

「主体思想」とは?
人間は自己の運命の主人であり、大衆を革命・建設の主人公としながら、民族の自主性を維持するために人民は絶対的権威を持つ指導者に服従しなければならないと唱える。(小学館『デジタル大辞泉』)

この個人崇拝を正当化した「主体思想」は、後継者(世襲)である、金正日(キム・ジョンイル)体制の正当化にも利用されていきました。

今回の記事は「金日成独裁体制」の確立がメインでしたので、ここでおしまいにしますね。
ここまで読んでもらえて、嬉しいです!ありがとうございました。

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