2020年、現在にも続いている「シリア内戦」や、トルコによるシリアへの攻撃、過去にはイスラエルとアラブ諸国の間に勃発した「中東戦争」や、中東地域の大国間で争った「イラン・イラク戦争」、さらにはアルカイダやISILなどのイスラム過激派によるテロ組織も、もとをたどれば第一次世界大戦中にイギリスによる外交政策でとしておこなった「三枚舌外交」と呼ばれるものが原因ではないかと言われています。
それでは、その三枚舌外交がなされた事情や時代背景をみていきましょう。

イギリスの一番の目的

三枚舌外交とは「(1915年)フサイン=マクマホン協定」「(1916年)サイクス・ピコ協定」「(1917年)バルフォア宣言」という3つの外交政策を指しているのですが、これらはイギリスが第一次世界大戦においてオスマン帝国を打破し、アラブ地域の分割を自由におこなうために実施されたものです。

当時のイギリスは「王冠の最大の宝石」とも呼ばれていた現在のインドを植民地にしていました。
そして、イギリスとインドを結ぶ重要拠点であった「スエズ運河」を手に入れることが最大の目的だったのではないかといわれています。

スエズ運河というのは、エジプトとシナイ半島を切る形で存在していますので、ヨーロッパとアジアの船舶での往来を非常に便利にしてくれます。
もしも、スエズ運河を利用できなければ、船舶でヨーロッアパからアジア、またはアジアからヨーロッパへの航路は、アフリカ大陸をぐるっと一周しなければいけなくなり、時間的にも資金的にもコストが高くなってしまうのです。

当時は石炭が主力エネルギーであり、石油は新しいエネルギーとして使われはじめたぐらいの時期でしたので(アメリカが鯨油に代わる燃料として開発を進めていました)、イギリスにとってアラブ地域の油田開発も魅力ではありましたが、主目的はスエズ運河の確保であり、とりわけライバル国であるフランスやロシアには、絶対に運河の利権を握られたくなかったのです。

もちろんこれら以外にも様々な思惑のなかで取り交わされた外交政策ではありましたし、異なる国家や異なる民族、そして異なる目的のなかで結ばれた条約や協定は、石油利権の価値が上がっていったことや、アメリカが参戦したことによって、予想以上の問題を引き起こしていくことになります。

三枚舌外交の中身

1915年フサイン=マクマホン協定

メッカのアミール(太守)だったフサイン・イブン・アリーと、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとのあいだでやりとりされた書簡の中で、イギリスは対オスマン帝国戦への協力(アラブ人によるオスマン帝国領内での反乱)を条件に、アラブ人居住地の独立支持を約束します。

この協定によって、イギリスからの支援をうけたハシーム家のフサインに率いられ、アラブ人は反乱を開始し、オスマン帝国はアラブ人の反乱に対処するために、兵力を投入せざるを得なくなりました。
つまりこの協定は、イギリスがオスマン帝国との戦争を有利に進めるために結ばれたものです。

1916年サイクス・ピコ協定

イギリス、フランス、ロシアのあいだで結ばれたオスマン帝国領の分割の仕方を決めた秘密協定です。
当初この協定では、シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とし、イギリスは、シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)を勢力範囲とし、ロシアは、黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域を勢力範囲とするよう決めていました。

この協定では秘密裏に、3国で勝手に割譲が決めていたのですが、1917年にロシア革命が起こったため、ウラジミール・レーニン政権によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が暴露されてしまい、フサイン・マクマホン協定との矛盾からアラブの反発を招いてしまいます。

こうしてロシアが離脱し、イギリスとフランスの2国間協定となったサイクス・ピコ協定は、フランス勢力圏下においてトラブルや(フサイン=マクマホン協定によって決められていたアラブ人区域と、サイクス・ピコ協定によるフランスの勢力圏が一部重なっていたため)衝突が発生しましたが、概ね守られています。
しかし、あくまでも勢力圏や国境線などを勝手に引いたため、後には国家を持てない民族(クルド人問題)や、宗派の違いによる対立が発生することになっていきます。

1917年バルフォア宣言

イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ系貴族院議員である第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明のことです。

シオニズムとは、ユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動を興そうとするユダヤ人の近代的運動も指すのですが、ここではイスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという運動を指しています。

このイギリスの支持表明は、巨額の資金を有していたロスチャイルドやアメリカで成功しているユダヤ人たちからの資金援助を確保や、膠着気味だった戦況を有利にするために、米在住ユダヤ人の圧力によって、アメリカを参戦させたいという思惑がありました。

しかし、西欧各国で成功しているユダヤ人のなかには無関心の者も多くいましたし、伝統的なユダヤ教徒には、メシアによるイスラエルの再建というヤハウェの約束を信じてきた観点から、シオニズムをユダヤ教のメシア信仰に対する裏切りであるとみなし、反対する者が多くいました。

しかし、ヨーロッパでのユダヤ人への迫害は、歴史的にも頻繁にありましたので、ユダヤ人国家の樹立を求める声も多くありました。
そしてWW1後には、徐々に入植が開始されていきますが、現実には、そこ(パレスチナ地域)には、アラブ人が住んでいたわけであり、欧州の列強国の思惑によって勝手に、ユダヤ人の入植を許可していったことは、大きなトラブルを招くことになっていきます。

また、バルフォア宣言にたいしては、フサイン・マクマホン協定との矛盾点が指摘されていますが、フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人国家の範囲にパレスチナは含まれていないため、この二つは矛盾しておらず、バルフォア宣言の原文では「ユダヤ国家」ではなく、あくまで「ユダヤ人居住地」として解釈できるというのがイギリスの言い分です。

結局は、WW1後からパレスチナを統治したイギリスがユダヤ人の入植を制限しながら進めていき、パレスチナがアラブ人とユダヤ人がそれなりにうまく暮らす地域へとなっていったのですが、ホロコーストで入植希望者が急増したことで、アラブ人がこれを阻止するため武装していくことになり、対立が深まっていくことになります。
一応イギリスは、WW2後のパレスチナ分割決議で、イスラエルの独立承認に反対し、抵抗しましたが、アメリカとユダヤ人に押し切られ、1948年5月14日にイスラエルは独立を宣言し、翌日にはイスラエルとアラブ周辺国のあいだに「第一次中東戦争」が勃発します。

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